セクハラ事件の責任を負って、財務省の事務次官が辞任した。
事の成行きをメディアの報道から顧みると、何とも奇妙で不思議な事件と言わざるを得ない。深夜、アルコールの入った席でテレ朝の記者と事務次官が会合し、そこにおいて次官が「抱きしめたい」とか、「おっぱいを触りたい」とか、発言したことが問題であるらしい。
それでは事務次官が、(貴女は魅力ないので)「抱きしめたくない」とか、「おっぱいを触りたくない」と言えばよいのか。普通の女性であれば、このように言われる方が侮蔑された気分になり、セクシャル・ハラッスメントになるのではないか。
仮にも事務次官の発言がセクハラであるとすれば、美しく化粧し、着飾った女性に対し、どう褒めればよいのか。「抱きしめたくも、抱きしめたくもありません」とか、「触りたくも、触りたくもありません」とか、言うのが正解なのか。まるで禅問答である。
換言すれば、男と女が会った場合、性的なことは一切話題にしてはならない、ということである。これでは、文学も、詩歌も、そして広く芸術全般が面白味のないものになってしまう。
テレビをはじめマスメディアは、事務次官の言動のみを非難しているが、筆者は、テレ朝の記者が自社でなく他のメディアにこの情報を流したことに違和感を覚える。そして、テレ朝記者の行動から判断して、財務事務次官はテレ朝記者が欲しがっている情報を漏らさなかったと推測できる。事務次官は、ハニーの美味に弱いのかもしれないが、守秘義務を守ったわけであり、公務員としての矜持を全うしたことになる。このことをどのメディアも触れていないのは、これまた不思議と言うほかない。
法律を少しでもかじった人は知っているであろうが、罪刑法定主義というのがある。何をしたら有罪、何をしたら無罪、という基準が明確でなければならないという基本原則である。その時々の世論の勢いで有罪になったり、無罪になったりすることは、断じてあってはならない。今回のセクハラ事件のように、マスメディアが一方的な意見のみを取り上げ、国会の審議においては問答無用の議論が横行し、世の中全体がヒステリックな状態になるのは、セクハラの蔓延以上に恐ろしいことである。我が国は法治国家であり、世論の高まりにより物事が決する国でないことを、近隣の国々にも示すべきである。