新しいVW ビートルは、これまでの「ニュービートル」ではなくて「The」がついて「The ビートル」と言うらしい。
へんなの。
カタチはキープコンセプトながら、背をすこし低めたチョップ・ド・ルーフなスタイルで、不思議とカッコイイ。
ちょっとも違いのようで、一気に魅力的になった気がする。
MINIを意識して、女子だけでなく男子にも訴求できるモデルに近づけたんだろう。
さて。
最近はもう「絆」という言葉がちまたに溢れすぎて、吐き気がしてきたところ。
「絆」「きずな」って、一体なんだと思って発せられているのだろう。
ついには「絆」を名乗る新政党まで登場した。
元来「絆」とは、とても純粋で綺麗な意味の言葉だと思うのですが、
そして、この震災を通して、そんな素敵な「絆」というものに、真の意味で触れたり、再確認したり、そういう機会を持った人々も、実際に居るのだろうと思う。
でも、現状のようにここまで世間に「絆」という言葉が氾濫すると、
もはや言葉の乱用にしか思えない。
言葉だけがどんどん軽いものになっていく。
「安全第一」とか
「Never give up」とかみたいなもので、
元来そこには、大きな重い意味合いがある言葉なのに、
使い古されて軽い言葉になってしまっている。
それでも「安全第一」などが、多用されても基本的には本来の使い道に使われているのに対し、
「絆」については、あいまいな見えないものである為に、余計に様々な場面に多用されすぎる。
乱用されているのだ。
「きずな」「きずな」って、言うほうも聞くほうも、その言葉があれはとりあえず安心なのだろうか。
道徳的な意味を持つ言葉だから、学校教育の中でも多く使われるのだろう。
ある年齢を超えれば、生徒・児童達から率先してこの言葉を使いたがるのだろう。
べつにそれはそれでいいのだけど、正しい意味、重さというのをしっかり教えてほしい。
たとえば、被災地の人たちに何かしてあげたいと思うけど、そのことでたとえば募金をしたり物資を送ったりして、
はっきり言って、そんなことで「絆」なんて生まれるはずがない。
そんなたやすいものじゃない。
あたかも日本中で「絆」キャンペーンが巻き起こってるかのような雰囲気さえあるけど、
冷静に言って、国民の大多数は被災していない。
だとすれば、ほとんどこれは被災者への「絆」の押し付けだとさえ言えそうだ。
募金した、そのことは素晴らしいことだ。
でもそれで、被災地と絆で結ばれているとか思ったら、大きな間違いだ。
もっと謙虚さを持つべきだ。
無力さを知るべきだ。
「やっているふり」「出来ている錯覚」というのがもっとも怖いことだと思う。
本来の絆というのは、互いに感じあって初めて生まれるものだ。
それが生まれるときは、素晴らしいものだろうけれど、
本当の絆が生まれるのは、とても希少なことで、
世の中にそんなに氾濫しているべきものではないと思うのだ。
まじめか。
読み返すとすごいアツく語ってるようだけど、
正直どうでもいい。
「絆」なんて飾りの言葉があろうと無かろうと、大勢に影響はない。