オカシのキモチ

日々の昼ごはんとお菓子作り、
そして休日は散策という名の食べ歩き。
食いしん坊夫婦の備忘メモです。

島根・山口・福岡・広島の旅2013 その3(維新胎動の地・萩)

2013年01月31日 | ├ 中国/四国/九州
島根・山口・福岡・広島の旅初日。

ようやく二泊三日のバスツアーの始まりです





到着した萩・石見空港は開港と同時に東京国際空港と大阪国際空港の2路線が就航しましたが、
元々人口希薄であり、ビジネス客も少ない山陰西部に位置するため開港以来利用率の今尚低迷が続いている様子が伺えました。

混雑が少ないのは有り難いですが、利用拡大を図って何とか持ち堪えてほしいです。






まずは萩・石見空港から旅行会社が案内するバスで移動

荒波の日本海に迎えられ、この時点の天候は暴風雪でした...





バスを降りる頃は晴天でしたが、都内に比べると風がとても冷たかったです。

ビュービュー吹いてましたよ




▲萩城城下町は国の史跡に指定されています

で、第一の観光スポットは“維新胎動の地”と呼ばれる萩の城下町。

碁盤目状に区画された町筋には武家屋敷や町屋が軒を連ね、
当時の面影を色濃く残した歴史散策スポットです。





その様相は江戸時代の古い地図が、今尚使えてしまうほど。

萩藩士や豪商の家が立ち並ぶ通りを散策してみると、時代劇の中にウッカリ潜り込んでしまった気分を味わえるかもしれません(笑)

ここで、しばし散策の時間です




【萩城下町】








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萩城下町は徳川幕府との対立を経て天皇を中心とする近代的統一国家の形成を主導した西南雄藩のひとつである萩藩の政治的・経済的・文化的・軍事的な拠点でした。
当時の地割りが今も変わることなくよく残っており、近世の封建社会がわかる典型的な町として現在に受け継がれています。
封建社会の様相を特によく残しているところは、天守閣のあった「萩城跡」や武家屋敷や豪商などの町家が軒を連ねていた「萩城城下町」(いずれも国史跡)、
また、藩の重臣たちの邸宅が建ち並ぶ武家地「堀内地区」、藩主の御船倉があり廻船業や漁業などで栄えた町人地「浜崎地区」、鍵曲がある中下級武家地「平安古地区」
(いずれも国選定重要伝統的建造物群保存地区)などです。

表通りの呉服町筋は御成道で、この通りに面しては萩藩御用達の豪商菊屋家、幕末の商家久保田家などの家々が残っている。
表通りから南に向かって菊屋横町、伊勢屋横町、江戸屋横町と呼ばれている小路があり、高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅やなまこ壁の土蔵、門、土塀などが並んでいます。

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【菊屋家住宅】






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白壁となまこ壁が美しい城下町のシンボル
萩藩の御用達を勤めた豪商菊屋家の住宅で、その屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられた。
屋敷地には数多くの蔵や付属屋が建てられているが、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されている。この住宅は、主屋が極めて古く、
全国的にみても最古に属する大型の町家としてその価値は極めて高い。
菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれる。

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【旧久保田家住宅】


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旧久保田家住宅は、旧御成道(おなりみち 参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート)沿いに位置し、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家です。
久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられます。
以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業 していました。明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されています。
意匠・構造・技術に優れるとともに、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝え、「国指定史跡萩城城下町」を構成する極めて重要な建物です。

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【木戸孝允旧宅】


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維新の三傑の一人
木戸孝允は、天保4年(1833)萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子となったので、桂小五郎の名でも知られています。
17歳のときに吉田松陰の門下生となり、尊皇攘夷運動に参加しました。
嘉永5年20歳の時に江戸に遊学し、神道無念流の斎藤弥九郎に入門し、剣の道で頭角を現し、翌年には塾長に抜擢されました。
さらに、造船術や蘭学を学び、25歳で萩藩に登用され、藩命により京都で公卿、他藩との折衝に当たりましたが、文久3年(1863)の政変以後は地下活動を余儀なくされ、
翌元治元年6月の池田屋事件では危うく難を逃れ、帰国後は挙藩討幕に尽力しました。

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【円政寺】


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月輪山円政寺は真言宗の寺院で、建長6年(1254)山口に創建された大内氏代々の祈願所でした。
慶長9年(1604)頃に山口から移転され、毛利氏の祈願所となりました。境内には十二支彫刻の欄間で知られる金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる点で貴重な寺といえます。
伊藤博文が11歳の頃、住職恵運に諭され、読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃にはよくここで遊んだといわれています。

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※円政寺には大きな天狗の面があり、晋作が幼少時にこの天狗肝試でしに来たという逸話があります。




【高杉晋作誕生地】





▲高杉晋作の産湯に使われたという井戸





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奇兵隊を編成した幕末の風雲児
高杉晋作は、萩藩大組士高杉小忠太の長男として天保10年(1839)に生まれ、安政4年(1857)に松下村塾に通い始めました。
松陰からは「有識の士」として将来を嘱望され、松陰の死を乗り越え、江戸修行や自ら試撃行と称した東北修行の旅で松陰の師である佐久間象山らとの出逢い成長していきました。
文久3年(1863)5月、萩藩は下関海峡で、攘夷の火蓋を切りましたが、四国連合艦隊の攻撃を受け、藩兵力の弱体ぶりをさらけ出す結果となり、この危機打開のため翌6月に奇兵隊を結成しました。

少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵を悩まし、常に奇道をもって勝ちを制することから奇兵隊と呼び、身分を中心に編成された封建的軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊でした。
奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たしました。敷地内に晋作の写真や書などが展示され、自作の句碑「西へ行く 人をしたひて 東行く 心の底そ神や知るらん」や産湯に使ったとされる井戸があります。
初代内閣総理大臣伊藤博文が晋作のことを詠んだ歌碑に「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」というものがあります。

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※以上、[萩市観光ポータルサイト]を参照





▲晋作広場の高杉晋作銅像


▲高杉晋作誕生地より
約150年以上前の偉人も、この空を見ていたと思うと感慨深いものがあります...





そういえば、町並みの至る所で“夏みかん”の樹を見かけました。

これは、当時の萩藩において職を失った武士への救済措置として夏みかんの栽培が奨励された経緯があり、萩市内には今尚多くの夏みかんの樹が残っているそうです。
(山口県のガードレールの多くが黄色いのは山口国体の際に名産の夏みかんの色に由来して塗り替えられたためだそうです)





という事で、歴史に思いを馳せながら帰り際の売店で“むきみ”を買って食べたところ...
強烈に酸っぱかったです



甘い果物に慣れすぎですかね(笑)



(つづく)



【過去の記事より →こちらは世界遺産[夏の京都・大阪2011その6 京の甘味処と世界遺産]



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