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今晩のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』第22回「虎と龍」では、
幾度となく不思議な縁を重ねて宴で急接近した直虎と龍雲丸を横目に一人部屋に籠って「くだらんぞ、但馬」と自問自答する政次が印象的でした。
“あなたはお兄(お姉)ちゃんなんだから”“あんた親でしょ”“上司でしょ?”と対外的には役割(役職)を逆手にとって責任を追及したり、
自らに対しては“自分は○○だから”と言い聞かせて素直な気持ちを抑えたり、立場に甘んじてしまうことは何時の時代もあって、切ないです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/8a/0d219c1a60bbb6c370eac880026ac010.jpg)
※NHKホームページより
自分は“今川の目付け役”だろ?
井伊のために盾となり、男として直虎(おとわ)から愛されることは諦めたはずだろ?
直虎と龍雲丸の仲良さそうなやりとりに、政次も思わず心に閉まったキモチを吐露してしまったのかもしれません...
この三角関係、どうなることやら。
さて、先月半ばに妻と出かけた静岡・浜松の旅行記は本日最終回。
長らくお付き合い頂きましてありがとうございます![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_en2.gif)
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▲駿府城の外濠に架かる城代橋
静岡駅に戻ってくると地下の喫茶「一茶」で一休みした後、もう少しイケるだろうと...
駆け足で駿府城(駿府城公園)に向かいました![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
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▲“わさび漬け発祥の地”として設置されたわさび漬けの樽とわさびを模した彫刻
明治時代に一度払い下げられるも戦後再び静岡市が所有することになった駿府城。
本丸・二ノ丸は駿府公園として整備され、今や静岡市民の憩いの場として親しまれています。
平成元年に市制100周年記念事業として巽櫓が復元、続く平成8年には東御門が復元、平成24年4月には名称が駿府城公園と改められ、平成26年4月には坤櫓も復元されました。
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▲ここにも家康公の像が設置されていました
その歴史を紐解くと、遡ること650年ほど前の室町時代。
今川範国(のりくに)が駿河国の守護に任ぜられた頃から駿府城周辺に今川氏の館があったと考えられています。
駿府周辺の五カ国の大名となった徳川家康公は1585年(天正13年)から居城として駿府城の築城をはじめ、1589年(天正17年)に現在の二ノ丸以内の部分を完成させました。
1603年(慶長8年)、征夷大将軍となった家康公は江戸幕府を開き、1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲り、1606年から再び駿府城の修築に着手し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取り掛かりました。
1607年(慶長12年)に本丸が完成するも、同年12月に失火焼失...
直ちに再建に取り掛かり、1608年(慶長13年)本丸御殿、1610年(慶長15年)に天守を完成させました。
家康公は江戸幕府を磐石なものとするために「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「元和一国一城令」などを制定するとともに、駿府城においてアジア諸国をはじめオランダ、スペイン、イギリスなどとも交易を行うなど外交も行っていました。
1616年(元和2年)家康公が薨去したのち、1624年(寛永元年)、秀忠の息子の忠長(家光の弟)が城主となりましたが、1631年(寛永8年)5月に忠長が甲府(高崎)に蟄居を命ぜられ、駿府城の城主は不在となり、幕末まで城代が置かれました。
明治維新後、1873年(明治6年)陸軍省より「保存が必要な城郭」に指定されるも荒廃したまま放置され、巡り巡ってまた再び静岡市が所有したわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/12/32c094a4d00529fceb1e04d8c846ea4e.jpg)
城と言えば真っ先にイメージする“天守”はありませんが、3重の濠で囲まれた駿府城。
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を支配していた際の家康公がここを支配の拠点とし、
江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心として君臨した駿府“黄金時代”の息吹をその巨大さから感じることができました。
今回は俗に言う聖地巡りですが...
掛川・気賀・龍譚寺・共保出生の井戸・浜松城・駿府城とその地に自ら足を運ぶことで歴史・史実・偉人との“距離感”がほんの少し縮まったような気がします。
(あまり好きなシーンではありませんが...駿府からの“お下知”である度に当時は井伊谷から駿府まで馬に乗って移動したワケで、文明の利器の有難さを実感します)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/f7/d72b18c4dd9de164f54c798d62e1bbfa.jpg)
▲夕飯は「桜海老の炊き込みごはん弁当」を帰りのバスで食べました
物語が一度完結したら、折にふれて他の地も足を運んでみたいですね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_en2.gif)
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■一泊二日のバス旅行~静岡・浜松編まとめ
【静岡編】
vol.1:海鮮丼専門店「のっけ家」
vol.2:名物!静岡おでん「海ぼうず」
【掛川編】
vol.3:夜の掛川城と夜鳴きそば
【浜松編】
vol.4:気賀「大河ドラマ館」
vol.5:二郎法師ゆかりの寺「龍譚寺」
vol.6:井伊谷宮と共保出生の井戸
vol.7:浜松城
vol.8:ご当地グルメ「浜松城」
vol.9:静岡茶
vol.10:駿府城公園
幾度となく不思議な縁を重ねて宴で急接近した直虎と龍雲丸を横目に一人部屋に籠って「くだらんぞ、但馬」と自問自答する政次が印象的でした。
“あなたはお兄(お姉)ちゃんなんだから”“あんた親でしょ”“上司でしょ?”と対外的には役割(役職)を逆手にとって責任を追及したり、
自らに対しては“自分は○○だから”と言い聞かせて素直な気持ちを抑えたり、立場に甘んじてしまうことは何時の時代もあって、切ないです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/8a/0d219c1a60bbb6c370eac880026ac010.jpg)
※NHKホームページより
自分は“今川の目付け役”だろ?
井伊のために盾となり、男として直虎(おとわ)から愛されることは諦めたはずだろ?
直虎と龍雲丸の仲良さそうなやりとりに、政次も思わず心に閉まったキモチを吐露してしまったのかもしれません...
この三角関係、どうなることやら。
さて、先月半ばに妻と出かけた静岡・浜松の旅行記は本日最終回。
長らくお付き合い頂きましてありがとうございます
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▲駿府城の外濠に架かる城代橋
静岡駅に戻ってくると地下の喫茶「一茶」で一休みした後、もう少しイケるだろうと...
駆け足で駿府城(駿府城公園)に向かいました
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▲“わさび漬け発祥の地”として設置されたわさび漬けの樽とわさびを模した彫刻
明治時代に一度払い下げられるも戦後再び静岡市が所有することになった駿府城。
本丸・二ノ丸は駿府公園として整備され、今や静岡市民の憩いの場として親しまれています。
平成元年に市制100周年記念事業として巽櫓が復元、続く平成8年には東御門が復元、平成24年4月には名称が駿府城公園と改められ、平成26年4月には坤櫓も復元されました。
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▲ここにも家康公の像が設置されていました
その歴史を紐解くと、遡ること650年ほど前の室町時代。
今川範国(のりくに)が駿河国の守護に任ぜられた頃から駿府城周辺に今川氏の館があったと考えられています。
駿府周辺の五カ国の大名となった徳川家康公は1585年(天正13年)から居城として駿府城の築城をはじめ、1589年(天正17年)に現在の二ノ丸以内の部分を完成させました。
1603年(慶長8年)、征夷大将軍となった家康公は江戸幕府を開き、1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲り、1606年から再び駿府城の修築に着手し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取り掛かりました。
1607年(慶長12年)に本丸が完成するも、同年12月に失火焼失...
直ちに再建に取り掛かり、1608年(慶長13年)本丸御殿、1610年(慶長15年)に天守を完成させました。
家康公は江戸幕府を磐石なものとするために「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「元和一国一城令」などを制定するとともに、駿府城においてアジア諸国をはじめオランダ、スペイン、イギリスなどとも交易を行うなど外交も行っていました。
1616年(元和2年)家康公が薨去したのち、1624年(寛永元年)、秀忠の息子の忠長(家光の弟)が城主となりましたが、1631年(寛永8年)5月に忠長が甲府(高崎)に蟄居を命ぜられ、駿府城の城主は不在となり、幕末まで城代が置かれました。
明治維新後、1873年(明治6年)陸軍省より「保存が必要な城郭」に指定されるも荒廃したまま放置され、巡り巡ってまた再び静岡市が所有したわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/12/32c094a4d00529fceb1e04d8c846ea4e.jpg)
城と言えば真っ先にイメージする“天守”はありませんが、3重の濠で囲まれた駿府城。
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を支配していた際の家康公がここを支配の拠点とし、
江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心として君臨した駿府“黄金時代”の息吹をその巨大さから感じることができました。
今回は俗に言う聖地巡りですが...
掛川・気賀・龍譚寺・共保出生の井戸・浜松城・駿府城とその地に自ら足を運ぶことで歴史・史実・偉人との“距離感”がほんの少し縮まったような気がします。
(あまり好きなシーンではありませんが...駿府からの“お下知”である度に当時は井伊谷から駿府まで馬に乗って移動したワケで、文明の利器の有難さを実感します)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/f7/d72b18c4dd9de164f54c798d62e1bbfa.jpg)
▲夕飯は「桜海老の炊き込みごはん弁当」を帰りのバスで食べました
物語が一度完結したら、折にふれて他の地も足を運んでみたいですね
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■一泊二日のバス旅行~静岡・浜松編まとめ
【静岡編】
vol.1:海鮮丼専門店「のっけ家」
vol.2:名物!静岡おでん「海ぼうず」
【掛川編】
vol.3:夜の掛川城と夜鳴きそば
【浜松編】
vol.4:気賀「大河ドラマ館」
vol.5:二郎法師ゆかりの寺「龍譚寺」
vol.6:井伊谷宮と共保出生の井戸
vol.7:浜松城
vol.8:ご当地グルメ「浜松城」
vol.9:静岡茶
vol.10:駿府城公園