
▲飯盛山参道入口:白虎隊士の墓が山頂にあります
一泊二日の福島旅行もようやく終盤です。
会津若松と言えば、多くの日本人は白虎隊を連想し、観光スポットとして「飯盛山」を外すことはできないと、自転車を走らせやってきました。

▲土産処の店頭でお婆さんが桃を剥いて売っていました

▲登り口脇にスロープがありますが、有料です...
ご存知の方が多いかもしれませんが...
白虎隊とは会津藩主「松平容保」が洋式の軍制を取り入れ、年齢別に編成された部隊の一つで、16~17歳の少年で結成されたもの。
(重複しますが)各隊の名称は古代中国の神話にある四神(天の四方の方角を司る神獣)を示し、鶴ヶ城をそれらの神獣が四方から守るという願いを籠めて命名したのでしょう。
--------------
*北→ 玄武(げんぶ)隊:50歳以上
*東→ 青龍(せいりゅう)隊:36~49歳
*南→ 朱雀(すざく)隊:18~35歳
*西→ 白虎(びゃっこ)隊:16~17歳
--------------
中には志願して生年月日を改め、15歳で出陣した者もいた他、幼少組として13歳の少年も加わっていたようです。

▲白虎隊像:酒井峰治の像
戊辰戦争において、徳川将軍の体制維持のために会津で戦う主力舞台は朱雀・青龍隊であり、玄武・白虎隊は言わば“予備軍”でした。
が...新政府軍の攻撃に遭い、白虎隊も出撃したところ、若松城(=鶴ヶ城)北東に位置する飯盛山にて、戦闘による市中火災の様子を若松城が“落城”したものと誤認し、悲観して自刃を決行したのは有名な哀話です。


参道を登り切った山中に白虎隊士の墓があります。
正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)、その右側に会津各地で戦士した白虎隊士31名の墓。
更に白虎隊士と同年代の少年兵達の慰霊碑、会津藩殉難烈婦碑、松平容保公弔歌碑などもあり、すぐ近くに蘇生者「飯沼貞雄(貞吉)」の墓もありました。

▲少し下ったところに白虎隊自刃の地があります
コトバに詰まります...

▲左には上ってきた階段、右に行くと階段の無い下山道があります
今尚、ここから市内を見渡せば鶴ヶ城を望むことが出来ます。
そして彼ら“白虎隊士”の墓前から香煙が絶えることはありません。
(つづく)
一泊二日の福島旅行もようやく終盤です。
会津若松と言えば、多くの日本人は白虎隊を連想し、観光スポットとして「飯盛山」を外すことはできないと、自転車を走らせやってきました。

▲土産処の店頭でお婆さんが桃を剥いて売っていました

▲登り口脇にスロープがありますが、有料です...
ご存知の方が多いかもしれませんが...
白虎隊とは会津藩主「松平容保」が洋式の軍制を取り入れ、年齢別に編成された部隊の一つで、16~17歳の少年で結成されたもの。
(重複しますが)各隊の名称は古代中国の神話にある四神(天の四方の方角を司る神獣)を示し、鶴ヶ城をそれらの神獣が四方から守るという願いを籠めて命名したのでしょう。
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*北→ 玄武(げんぶ)隊:50歳以上
*東→ 青龍(せいりゅう)隊:36~49歳
*南→ 朱雀(すざく)隊:18~35歳
*西→ 白虎(びゃっこ)隊:16~17歳
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中には志願して生年月日を改め、15歳で出陣した者もいた他、幼少組として13歳の少年も加わっていたようです。

▲白虎隊像:酒井峰治の像
戊辰戦争において、徳川将軍の体制維持のために会津で戦う主力舞台は朱雀・青龍隊であり、玄武・白虎隊は言わば“予備軍”でした。
が...新政府軍の攻撃に遭い、白虎隊も出撃したところ、若松城(=鶴ヶ城)北東に位置する飯盛山にて、戦闘による市中火災の様子を若松城が“落城”したものと誤認し、悲観して自刃を決行したのは有名な哀話です。


参道を登り切った山中に白虎隊士の墓があります。
正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)、その右側に会津各地で戦士した白虎隊士31名の墓。
更に白虎隊士と同年代の少年兵達の慰霊碑、会津藩殉難烈婦碑、松平容保公弔歌碑などもあり、すぐ近くに蘇生者「飯沼貞雄(貞吉)」の墓もありました。

▲少し下ったところに白虎隊自刃の地があります
コトバに詰まります...


▲左には上ってきた階段、右に行くと階段の無い下山道があります
今尚、ここから市内を見渡せば鶴ヶ城を望むことが出来ます。
そして彼ら“白虎隊士”の墓前から香煙が絶えることはありません。
(つづく)