マキアヴェッリ(本書の記法ではマキャヴェッリ)の『君主論』については毀誉褒貶含めてさまざまに言われているが、実際に通読した上でそれを言っている人はどれほどいるだろう?──というわけで読んでみた。最初に通読したのは2019年で、今回は二度目の通読になる。
『君主論』はマキアヴェッリがロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォの孫で小ロレンツォと呼ばれる)に献呈した冊子で、自身の経験から導き出した君主のあり方について述べたものである。
君主のあり方について述べた書物としては、東洋においては『貞観(じょうがん)政要』がよく知られている。「帝王学の教科書」とも呼ばれるこれは唐代に編纂されたもので、平和で政治的にも安定していた貞観の治という時代をもたらした皇帝、太宗の言行が記され、その治世の要諦が語られている。
この『貞観政要』が平時における君主のあり方を説いた書であるのに対して、『君主論』はさまざまな勢力の政治的、軍事的力学が複雑に絡み合う16世紀イタリアという、動乱の時代における君主のあり方を説いた書であり、そのため両者の性格は全く異なる。
『君主論』でマキアヴェッリは君主のあり方について、例えばこんな風に述べる。
『君主論』の「君主」とは、もちろん一国のトップに立つ者、国の指導者のことであり、この書がロレンツォ・デ・メディチに捧げられたように、マキアヴェッリはそうした人を読者として想定していることは間違いないが、実はこの書は何らかの形で「人の上に立つ人」──たとえ小さいものでも会社や組織の長という立場にある人から、果ては子を持つ親まで──には(細部を読み替えることで)さまざまな気づき、学びが得られるだろう。その普遍性/不変性ゆえに、『君主論』とは究極の自己啓発書、自己啓発書の原点にして頂点、と言えるのかもしれない。
最後にテキストの選定について述べておきたい。現在、『君主論』は数種類の翻訳が出ている。この光文社古典新訳文庫の森川辰文訳を選んだのは、近所の本屋で並んでいたのがこの森川訳と岩波文庫の河島英昭訳の2冊で、両者を読み比べてみて森川訳の方が読みやすそうだったからだが、後でAmazonレビューで、この森川訳が「訳文がひどい」と批判されているのを知った。
『君主論』はマキアヴェッリがロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォの孫で小ロレンツォと呼ばれる)に献呈した冊子で、自身の経験から導き出した君主のあり方について述べたものである。
君主のあり方について述べた書物としては、東洋においては『貞観(じょうがん)政要』がよく知られている。「帝王学の教科書」とも呼ばれるこれは唐代に編纂されたもので、平和で政治的にも安定していた貞観の治という時代をもたらした皇帝、太宗の言行が記され、その治世の要諦が語られている。
この『貞観政要』が平時における君主のあり方を説いた書であるのに対して、『君主論』はさまざまな勢力の政治的、軍事的力学が複雑に絡み合う16世紀イタリアという、動乱の時代における君主のあり方を説いた書であり、そのため両者の性格は全く異なる。
『君主論』でマキアヴェッリは君主のあり方について、例えばこんな風に述べる。
(前略)したがって、諸君は、闘いにはふたつの種類があることを知らなければならない。一つは法律によるものであり、もう一つは力によるものである。前者は人間固有のものであり、後者は野獣のものである。だが多くの場合前者だけでは不十分なので、後者に訴えなければならない。それゆえ君主には野獣と人間をうまく使い分けることが必要である。(中略)こうしたニヒリスティックとも言えるような記述がしばしば批判の元となり、マキアヴェリズムという言葉さえ生まれた『君主論』だが、ここに述べられていることはいつの時代も変わらない1つの真実であることも確か。だからこそ『君主論』は、今なお読む者に大きな示唆を与える古典であり続けているのである。
したがって、君主にとって必要なのは前述の資質を実際にすべて備えていることではなくて、備えているように見せかけることである。それどころか、むしろ、私はあえて次のように言いたい。すなわち、それらの資質を備え、つねに守るのは有害だが、それらを備えているように見せかけるのは有益である、と。例えば、慈悲深く、信義を守り、人間味があり、誠実で、信心深く見えること、そして実際にそうであることは有益である。だが、そのようであることが必要でなくなったら、全く反対の資質を持った人物になりきることができるような心構えをあらかじめ持っていなくてはならない。(第18章「君主はどのようにして信義を守らなければならないか」)
『君主論』の「君主」とは、もちろん一国のトップに立つ者、国の指導者のことであり、この書がロレンツォ・デ・メディチに捧げられたように、マキアヴェッリはそうした人を読者として想定していることは間違いないが、実はこの書は何らかの形で「人の上に立つ人」──たとえ小さいものでも会社や組織の長という立場にある人から、果ては子を持つ親まで──には(細部を読み替えることで)さまざまな気づき、学びが得られるだろう。その普遍性/不変性ゆえに、『君主論』とは究極の自己啓発書、自己啓発書の原点にして頂点、と言えるのかもしれない。
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けれども実際に森川訳で読んだ限り、そこまで訳文がひどいとか意味が取れないと感じることはなかった。森川訳の特徴は「カッチリした訳文」で、確かに日本語としてこなれていないとか一文が長くて意味が取りにくいと感じる箇所はあったが、それは翻訳文ではしばしばあることで、しかも古典であることを考えれば、ことさら騒ぎ立てることでもないように思う。とはいえ読み手の好みもあるので、森川訳が肌に合わない人もいるだろう。原典は同じなので、可能ならさまざまな訳を読み比べて、一番自分に合ったものを選べばいいのだろう。
※「本が好き」に投稿したレビューを採録したもの。
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