今回はアニメ『空(から)の境界』の第5章「矛盾螺旋」のOSTからの1曲でも聴きながら、読んでくださいな。
クラニオセイクラル・ワーク、特にバイオダイナミックなクラニオでは、体の持つ周期的な律動(タイド tide)にはCRI(クラニアル・リズミック・インパルス)、ミッド・タイド、ロング・タイドの3種類があるとされている(注1)。
そしてフランクリン・シルズは、施術者は意識の向け方を変えることで、それぞれのタイドにアクセスするように説いている。
具体的には、意識を相手のある局所に向けることで知覚できるのがCRI、意識を相手の体全体を大きく包むように向けることで知覚できるのがミッド・タイド、そして意識を地平まで広げることで知覚できるのがロング・タイドという具合だ。
(注1)これらの名称はシルズによるが、呼び名は本によってさまざまで、全く統一されていない。CRIをアプレジャーはクラニオセイクラル・リズムと呼び、リドリーやミルンはクラニアル・ウェーブと呼んでいる。リドリーはミッド・タイドをフルーイッド・タイドと呼んでいるが、シルズはフルーイッド・タイドを別の意味で使っている。
実際、同じようにホールドしていても、こちら側が相手のどこに意識を向けるかで得られるものが変わることは私自身、常に実感していることでもある。だからシルズの言うように、意識の向け方を変えることで異なるタイドにアクセスする、という方法は少なくとも間違っていない、と思う。
が、そこに異議を唱える人がいる。チャールズ・リドリーはその著書『スティルネス』の中で、こうしたシルズ的な方法論を真っ向から否定する。
Craniosacral biodynamics texts may state that in order to percieve fluid tide, long tide, or Dynamic Stillness, all you must do is bring about a contrieved shift of your perceptual field, and change of the quality of your hands -- suddenly, you'll percieve the desired enfoldment. In my experience, these enfoldments do not appear on command. I have never been able to shift my perceptual field, like gear, and then percieve long tide whenever I wish to do so. The Breath of Life calls all the shots. Whenever I am allowed to bear witness to its mysterious workings, I always feel priviledged.
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスのテキストは、フルーイッド・タイド、ロング・タイド、動的静止を知覚するためには、ただ知覚場の不自然なシフトや手の性質の変化──突然、求めていたそこに含まれるものを感じ取ることになる──を引き起こすだけでよい、と主張していることがある。私の経験では、こうしたそこに含まれるものは命じても現れない。私にはギアのように知覚場をシフトできたためしも、望むときにいつでもロング・タイドを感じ取れたためしもない。命の息吹がすべてを決めるのだ。その不思議な作用を目撃するのに耐える、と認められると、私はいつも名誉に感じる。
こうしたリドリーの主張は上に述べた私自身の経験と合致しないものの、私はシルズの本もリドリーの本も訳しているので、両方のやり方を勝手気ままに混ぜて使っている。実はリドリーの言う通りのやり方をすると、シルズのやり方を使った時とはまた違うクラニオが使えるのだ。
シルズは「CRIへはどうしても必要な時以外はアクセスせず、可能な限りワークはミッド・タイド以上で行うべきだ」と述べているが、リドリーは「まずクラニアル・ウェーブ(=CRI)にアクセスすることが基本だ」としている。そして、リドリーは「異なるタイドへのアクセスは、施術者が意識の向け方を変えることでコントロールできるものではなく、相手の命の息吹の意思によって決められることで、施術者はただその結果を受け入れるだけ」なのだという。
従ってリドリー的なクラニオは、まず相手のある局所に自分の意識を向けることから始める。この場合、アクセスするタイドはクラニアル・ウェーブ(=CRI)となる。そしてそのまま何もせず(注2)ただ待っていると、自分の知覚場が勝手に押し広げられてフルーイッド・タイド(=ミッド・タイド)にアクセスし、また更に押し広げられてロング・タイドにアクセスしている、といったことが起こるのである。
(注2)リドリーはサザーランドの残した「無為の為(doing not-doing)」という言葉を極めて原理主義的に解釈するため、彼のクラニオは施術者が(物理的なものであれ、非物理的なものであれ)いかなる検査も操作もすることを認めない。リドリーのクラニオでは文字通り「何もしない、ということをする」のである。
白状すると、私はシルズ的なやり方ではうまくロング・タイドにアクセすることができず、ロング・タイドへのアクセスは大半がリドリー的なやり方を使った時だ(が、もちろんリドリー的なクラニオを使えば必ずロング・タイドにアクセスするわけではない。どこまでのタイドにアクセスするかは、相手の命の息吹が決めることだから)。
ちなみにリドリー的なクラニオの場合、最初に自分が意識を向けた範囲に戻ってきたら終わりとなる。
以上、ご参考までに。
意識のチャンネルを変えるような器用な真似は私には不可能で
入ってきたものしか感じ取ることができません
それが彼らの言うどれに該当するのかさえわかりません
私の場合シルズとは逆になるのかもしれませんが意識を消すように心掛けています
意識すると何も入ってこないんですよね
将来的にこれも変わっていくかもしれませんが・・・
手技療法というものは多かれ少なかれ、客観的な何かより施術者個人の感覚に頼るところがありますが、その中でも特にクラニオは非常に微細なレベルの変化(それも物理的な変化だけではないかもしれない)を扱うことになるので、仮に同じ言葉を使っていても、あの人の言う「それ」と私のとらえた「これ」が果たして同じものなのかどうか、本当は誰にも分からないのかもしれません。
そういう意味では
>クラニオワークは術者の数だけやり方があるように思っています
というのは、多分そうなのでしょう。