キネシオロジーにはとても人を高揚させるものがある。筋反射テストという手段を使えば、さまざまな質問にYes/Noで答えが得られるのだから。私もキネシオロジーを習い、使えるようになった頃は、まるで自分が世界のすべてを手に入れたような万能感を感じたものだ。
人によっては、その万能感が高じて筋反射テストを使って世界のすべてを数値化して評価してしまおうなどと考える人もいるようで、スティーヴン・ホーキンズの『パワーかフォースか』などはそんな、ある意味の誇大妄想が生み出したトンデモ本である。
この本については以前、「筋反射テスト考 その4」で批判的に取り上げたけれど、やはりキネシオロジストの中にはバイブルのように信奉している人もいて、そういうところを見ると、みんな何だかんだ言って「すべてのものの絶対的価値は天が与えてくれる。そしてその天の声は(筋反射テストによって)私を通じて降りてくる」みたいな話が大好きなんだなー、ということがよくわかる。
が、そういう幼児的万能感からいつまでも抜け出せない人は置いといて現実的な話を…
筋反射テストには、その精度を左右するさまざまな要因がある。これまでも何度となく書いてきたことだが、一応ここにまとめてみると、
1.肉体レベルの筋肉的な要素
一般に筋反射テストは指標(インジケータ)となる筋肉(インジケータ筋)を決め、それを使って行うが、そのインジケータ筋はクリア・サーキットの状態でなくてはならない。
このことについては以前、「筋肉の促通と抑制」という記事の中で詳しく述べているので、そちらを参照されたい。
2.電気的、エネルギー的な要素
これらはまとめて神経学的混乱(スイッチング)と呼ばれる。スイッチングについては「筋反射テスト考 その6」でも述べたが、個々の筋肉の不具合ではなく身体全体としての電気的、エネルギー的なレベルの乱れによって生じるものと考えられている。
スイッチングはこれまで複数個見つかっているが、それ以外にもまだ未知のものが数多く存在すると思われる。その意味で、事前にスイッチングを完全の除去しておくことは多分、不可能だ。
ここまではキネシオロジーで筋反射テストを行う前に片付けておくべきことなのだが、簡単に「それ以前の問題」といって済ませられない事情がある。というのは、これらは事前にいかに完璧に処理していたとしても、途中でまた現れてしまう可能性があるから。
逆に言えば、キネシオロジーのセッションとは最初からそれだけ不確定な要素を含んでいる、ということなのだ。
3.心理的な要素
これは特に術者側の持つある種の「先入観」「思い込み」といったもので、そういうものも筋反射テストの結果に大きく影響してくる。
だから術者側はできるだけ心を無にしてテストすることが重要なのだが、それだけでこの要素を回避できるわけではない。なぜなら、何の目的もなくただテストするということは通常あり得ず、テストは必ず何らかの意図をもって行うものだから。
4.インジケータ筋そのものの要素
一般にキネシオロジーでは、上の1の条件が満たされていれば、どの筋肉をインジケータ筋として選んでもよいことになっている。しかし、キネシオロジーには同時に関連筋という概念がある。つまり、特定の筋肉は特定の臓器、経絡、心理的・感情的な状態を反映している、という考え方だ。
例えばインジケータ筋には使いやすさから三角筋や腕橈骨筋、後大腿筋(ハムストリング)が使われることが多いが、キネシオロジーでは三角筋は肺、腕橈骨筋は胃、後大腿筋は直腸の関連筋とされている。
もちろん、「インジケータ筋として使う時は関連筋の要素は(意識的/無意識的に)封印してるし、インジケータ筋として使う時と関連筋として使う時ではテストの仕方が違う」という反論もあるだろう。でも、本当にそう言い切れるのか?
筋反射テストを使えば必ず1つの確定した答が得られる──それは単にインジケータ筋として1つの筋肉しか使っていないから、にすぎないのでは?
以前、「それぞれの現実(リアル)」で書いた内容とかぶるが、私の筋反射テストは自分自身の筋肉を代理筋として使うセルフ・テストが主で、両手の母指以外の4本の指すべての伸筋と屈筋(つまり合計16個の筋肉)をインジケータ筋としている。当然のことながら、そのすべてがクリア・サーキットの状態になるように調整しているし、スイッチングのチェックと除去も可能な限り行なっている。
そこで気づくのは、同じようにTL(セラピー・ローカライゼーション)しても、また同じ問いをしても、指ごとに筋反射テストの結果が微妙に異なることが普通に起こる、ということ。実はあらかじめ指同士で異なる結果が出ないように調整もしているのだが、それでもこの違いを完全に排除することができない。
どうも1つひとつのインジケータ筋はボディマインドのさまざまな部分の声を反映しているようだ。しかもそれは、単純な関連筋といった固定的な対応関係のものだけでは説明できない。
そこで私はいつも『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくるマギ・システムのことを想像してしまう。
マギはメルキオール、バルタザール、カスパーという、キリストの誕生に立ち会った東方三賢者の名を冠した3つのハードウェアから構成され、それぞれには開発者の科学者としての人格、母としての人格、女としての人格が埋め込まれている。
人格移植型システムであるマギは、間違いのない唯一の正解を弾き出すことを目的としたシステムではなく、1人の人間が内側で葛藤を繰り返しながら答を出していくプロセスそれ自体をシステムとして構築したものなのだ。
もしかしたら、キネシオロジーも同じなのではないのだろうか? 天が与える唯一絶対の答を降ろしてくるシステムではなく、それぞれの人が内に持つ矛盾を浮かび上がらせ、その調整を促すシステムなのだとしたら…。それが今の私にとってのキネシオロジーというシステムのイメージである。
ちなみに、iPhoneにはマギが入っているらしい(笑)。
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