ネットでたまたま見つけた記事に、もう素直に「負けた」と思った。
いつかアニメの話を入り口に、「人間のあり方」とか「この世界の構造」みたいなものに深く切り込むような記事を書きたいと思っていた。思っていたのだが、自分の中にモヤモヤとある断片的なものが上手く文章化できずに、結局、書いていなかった。
そんな折、海燕さんという人の書いた「キュウべぇはどこからやってきたのか? 『ほんとうの世界』のリアルと、「新世界の物語」。」を読んで、「そう、俺が書きたかったのはこういうことだったんだ!」ということがわかったのだから、もう「負けた」と言うしかないでしょう。
これを読むと、虚淵玄(うろぶち げん)がある時期からハッピーエンドの物語を書けなくなってしまった、ということの理由もよくわかる。
ところで虚淵玄つながりで行くと、『PSYCHO-PASS サイコパス』というアニメに、この海燕さんの論を当てはめると、ちょっと面白いことが見えてくる。つまり、「ドミネーターはどこからやって来たのか?」ということだ。
ここで『PSYCHO-PASS』を知らない人のためにちょっと解説すると──
物語の舞台はシビュラ・システムというものが人間のあり方まで支配する、完全管理された近未来の日本。このシビュラ・システムの導入によって、混乱した世界から日本はいち早く立ち直ることができた。
そしてドミネーターは「シビュラの目」とも呼ばれ、それを向けた相手の「犯罪係数」を読み取り、数値が基準値を上回ると、その程度に応じて相手を制圧あるいは排除(殺害、破壊)する、警官が所持する簡易型鎮圧執行システムである。
さて、海燕さんの「人間社会=人間的なルールが存在する世界」と「自然世界=一切のルールが通用しない世界=本当の意味で身も蓋もない現実の世界」という言葉をそのまま使わせてもらうと、ドミネーターは『まど☆マギ』のキュウべぇや『進撃の巨人』の巨人とは逆に、一度崩壊した社会秩序を回復させるものとして、「人間社会」から「自然世界」にやって来たものだ。
しかし、物語の進行とともにドミネーターのやって来た「人間世界」は、実は身も蓋もない「自然世界」そのものであったことが明らかになる。ちょうど、表側を辿っているはずがいつの間にか裏側になっているメビウスの帯のように、「人間世界」は「自然世界」へと反転している。
「壁」によって「人間社会」と「自然世界」とが分けられているように見えて、実はどこまでもただ「自然世界」が広がっているだけ──『PSYCHO-PASS』が描いていたのは、そういうことだったのではないか、と今になってそう思う。
そして、虚構の中でまさにそういう見の蓋もないリアルな世界を描いた、伊藤計劃(けいかく)の『虐殺器官』が劇場アニメ化されようとしている。
かつて寺山修司は「虚構による現実の侵犯」を企て、市街劇などを仕掛けたが、今起こっているのは虚構さえ現実と地続きにしてしまうような「現実による虚構の侵犯」である。我々の前に広がるのは、そんな虚構さえも現実の延長であるようなヒリヒリとした「どこにも行きようのない」世界だ。
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