深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

腎臓移植問題に思うこと

2006-11-07 12:11:15 | 一治療家の視点
病気に冒された患者から摘出した腎臓を別の患者に移植していたという、宇和島徳洲会病院を舞台にした腎臓移植問題を思うたびに、自分の体の奥がザワザワしてくる。腎臓を摘出され、それを場合によっては移植に使うかもしれないと言われて同意した患者──、病気の人から摘出されたと知った上で、移植を受けることに同意した患者──、そしてそれを仕切っていた医師たち──、そこには一体何があったのか

まず事件そのものが、とにかく不可解と言うほかない。このようにしてここ1年半の間に移植された腎臓11個のうち3個は、癌患者から摘出されたものだというが、そもそも、移植して他人の体の中で正常に動く臓器なら、なぜ本人の体に戻さないのか、(いや、そもそも、なぜ摘出する必要があったのか)ということが疑問だ。腎臓移植を行った万波誠医師は「日本では技術が進んで使える腎臓があるのに捨てている」と語り、「移植に耐える臓器なら、ドナーに戻すべきではないのか」という記者からの質問に対し、「摘出した腎臓を患者に返せるなら、返すのが大原則。だが、手術の全体状況を説明したら、摘出を望む人もいる」と答えている(11/5の朝日新聞)。

ここで問題なのは、万波医師が答えた中の、「手術の全体状況を説明したら…」の下りだ。現時点では、これについての詳しい話は報道されていないのでわからないが、一般論として、医師の側が「それは必要ない」と言っているにも関わらず、患者が「腎臓を取ってくれ」と自ら願い出る、などということはちょっと考えられない。むしろ、最初から何人かの患者に当たりをつけておいて(例えば、泌尿器系の疾患を持っているため、腎臓を摘出されても必ずしも不自然ではないが、腎臓そのものは比較的正常で、なおかつ医師の言うことには、たとえ心から納得していなくても逆らえない、意志の弱い患者、あるいは「お医者様にお任せ」型の患者、とか)、言葉巧みに腎臓を取らなければならないと思わせるように話を持って行くことの方が、ずっとあり得る。

何しろ、摘出側を担当したのは、万波誠医師の弟の廉介医師だ。たまたま廉介医師が、担当する患者の腎臓を摘出することになったが、たまたまその腎臓がまだ十分使えるもので、たまたまその腎臓に適合する患者が兄の誠医師のところにいた、などという偶然が1年半の間に11回も起こるなんて、一体どんなシンクロニシティだろう

また、「移植患者には、ドナーについてどう説明したのか」という記者の問いに対する万波誠医師は答えは「ドナーについて説明はしないし、会わせることもない。ただ、病名や臓器の状態は知らせている」というものだった(11/5の朝日新聞)。

私は臓器移植を待つ立場になったことはないので、よくわからないが、そういう人たちは、例えば癌の疑いのある臓器でも、移植を望むものなのだろうか? もし仮に、摘出する患者には「腎臓を残しておくと癌が再発する可能性があるので、取ってしまいましょう」と言っておきながら、移植する患者には「ドナーは癌だったが、腎臓は調べた限り癌には冒されていないので、これで癌になることはまずありません」と言っていたとしたら、これは欺瞞もいいところだ。

イギリスの作家G・K・チェスタートンの『ブラウン神父』シリーズの中に『折れた剣』という作品がある。戦上手で知られたアーサー・セント・クレア将軍は、最後の戦いで誰が見ても明らかにまずい指揮を執り、部隊に壊滅的な損害を被った、その謎をブラウン神父が解き明かしていくのだが、ブラウン神父は弟子のフラムボウに尋ねる「賢い人は小石をどこに隠すか?」。フラムボウは答える「河原です」。「では、賢い人は木の枝をどこに隠すか?」「森の中です」「では、森がない時はどうする?」フラムボウは答えられない。ブラウン神父は言う、「森がなければ、森を作ればいいのだ」

万波医師たちはアーサー・セント・クレア将軍と同じことをしたのではないだろうか。ドナーが足りない。移植できる腎臓が足りない。なら、ドナーを作ればいい。それは「きれい事を言わず問題を正視せよ。倫理指針を守っていたら何もできない」と主張する万波誠医師には多分、この上ないアイディアだったに違いない。

万波医師らは「カネのためにやったのではない」と主張していた。この言葉がどういう文脈の中で出てきたのかはわからない。「診療報酬を増やしたかったのか?」と問われての答えなら、ただ言葉通りの意味かもしれない。しかし仮に、そういう文脈だけの言葉ではないとすると、彼らはカネについて相当意識していた可能性がある。あるいは、万波兄弟ほか関係するメンバの間では、たびたび「我々はカネのためにやっているのではない」といったことが確認されてきたのかもしれない。いずれにしても、万波医師らは、カネに憑かれカネのために医療をやっている(と彼らの目には見えた)医療者を常に意識し、「我々は、そんな奴らとは違う」という強烈な思いを持っていた可能性がある。しかし、それはカネへの執着の裏返しに過ぎない。

では、彼らがカネの代わりに執着したものは何か? 「全ては患者のために」──彼らは「患者のため」という思いに憑かれてしまったのかもしれない。医療者が「患者のため」を思うことは正しい。目的が正しいなら、何をしても許されるべきだ──これと同じ論理は、アメリカ・ブッシュ政権や『DEATH NOTE』の中にも見て取れる。そして私も、ある部分でその考えは正しいと思っている。

しかし、それだからこそ「正しさ」には注意しなければならない。そして、「正しいこと」を語る者にも。世の中の「正しいこと」は得てして、それを語る者以外の人に痛みを強いるものだからだ。「正しいこと」を語る者は大抵、自ら痛みを受けることはない。だからこそ、それがその人にとって「正しいこと」なのだ。例えば、万波医師らの中で、腎臓疾患に悩む患者に自らの腎臓を差し出した人がいる、という話は全く聞こえてこない。

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2 コメント

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筋反射テスト (ぷに☆ぷに)
2006-11-08 23:40:21
こんにちは。
ぜひ筋反射テストで聞いてみたいです。
万波医師と移植された人の本意、そして移植された腎臓の本音を。
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全く同感です。 (sokyudo)
2006-11-09 14:31:15
ぷに☆ぷにさん、いつもコメントありがとうございます。

いや~全く同感です。
そもそも、病気になった臓器というのは、言わば、その人の「負の部分」を背負わされていたわけで、病気になることで「そんな生き方をしてちゃ、ダメだぞ~」と警告を発してくれていたところです。それが「病気で働けなくなってしまったのなら、いらないから取ってくれ」では浮かばれません。

ただ、それが心からの患者の気持ちだったのか、医師たちにそう思わされてしまったのかは、難しいところです。

腎臓自身の気持ちはどうなのでしょう? 理由はどうあれ「いらない」と捨ててしまうオーナーより、自分を心底必要としてくれるオーナーのもとで働いたほうが、幸せかもしれない、とも思えますが…
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