昼過ぎから強い南風が吹いた日の夕刻、日暮里の駅を降り立った。目指すはd-倉庫という耳慣れない場所。チラシに書かれた地図を頼りに、路地の奥の奥へ。全ては演劇集団・池の下による舞台『盲人書簡』を観るためだ。
『盲人書簡』──寺山修司による舞台演劇の代表作の1つと言われる作品。別名「暗闇の演劇」とも呼ばれる。その名は、俳優たちが舞台で擦るマッチの炎だけを明かりとするシーンに由来する…。『盲人書簡』については、そこまでは知っていたが、それ以上のことは知らなかった。実際に舞台を観るまでは。
ずっと観たいと思っていた。演劇実験室◎万有引力からの公演案内や月蝕歌劇団のチラシなどで『盲人書簡』が上演されていることも知っていたのだが、なぜか「この日なら観に行ける」という日には何か別の用事が入ってしまい、観ることができないで来た。それが今回やっと観に行けることになった。期待しないはずがない。今回『盲人書簡』を上演する演劇集団・池の下の舞台を見るのは初めてだが、池の下は現在、寺山修司全作品上演計画というのを行っていて、2006年には『犬神』で優秀演出家賞を受賞、2007年には『狂人教育』で3カ国6都市連続公演を果たすなど、活躍中
の劇団である。
開場
。入ってくる客によって席が徐々に埋まっていく、開演までの20分程の間、舞台では既に何かが始まっている。清朝末期頃の中国風の衣装をまとい、向かい合ってゆっくりとした動作でボードゲームをする2人の男と、その傍らでセーラー服姿で綾取りをする女。そしてその上の2階と思しきところには、赤い紐で縛られた、もう1人のセーラー服の女。これぞ寺山演劇の醍醐味。日常が一気に異界へと代わる瞬間だ。
しかし、その日は何だか疲れていたせいか、暗転が多いのとあいまって、途中からうつらうつらして半分眠ったような状態で芝居を観ることになった。時々、とてもいいセリフがあって、「これはブログに書く時のために覚えておこう」と思うのだが、場面が変わり、ふと気がつくと頭から消えている。ちょうど、あれほど鮮明で強烈だったはずの夢が、目覚めとともに急速に記憶の彼方に消えていってしまうように。だが、おかしい。芝居は夢ではなく、現実に目の前で演じられているはずなのに…
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夢が現(うつつ)か、現が夢か──
夢と現の間を(芝居も、そして現実の自分も)行き来しながら、「暗闇の演劇」である『盲人書簡』の世界をただひたすら辿っていくと、突然、衝撃のラストに行き着く。その瞬間、『盲人書簡』が「暗闇の演劇」であるということの本当の意味が明らかになる。闇とは光のない状態を言うのではない。光すらもまた闇なのだ、ということが。
そのラストを見た時、ヴァレリー・アファナシェフがアルバム『シューベルト:ピアノ・ソナタ18番<幻想ソナタ>』
の中で述べている「白い闇」についての記述が思い出された。
『盲人書簡』は、それを観た者を変容させてしまうという意味で、寺山修司の放った紛れもない傑作
である。
『盲人書簡』──寺山修司による舞台演劇の代表作の1つと言われる作品。別名「暗闇の演劇」とも呼ばれる。その名は、俳優たちが舞台で擦るマッチの炎だけを明かりとするシーンに由来する…。『盲人書簡』については、そこまでは知っていたが、それ以上のことは知らなかった。実際に舞台を観るまでは。
ずっと観たいと思っていた。演劇実験室◎万有引力からの公演案内や月蝕歌劇団のチラシなどで『盲人書簡』が上演されていることも知っていたのだが、なぜか「この日なら観に行ける」という日には何か別の用事が入ってしまい、観ることができないで来た。それが今回やっと観に行けることになった。期待しないはずがない。今回『盲人書簡』を上演する演劇集団・池の下の舞台を見るのは初めてだが、池の下は現在、寺山修司全作品上演計画というのを行っていて、2006年には『犬神』で優秀演出家賞を受賞、2007年には『狂人教育』で3カ国6都市連続公演を果たすなど、活躍中
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開場
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しかし、その日は何だか疲れていたせいか、暗転が多いのとあいまって、途中からうつらうつらして半分眠ったような状態で芝居を観ることになった。時々、とてもいいセリフがあって、「これはブログに書く時のために覚えておこう」と思うのだが、場面が変わり、ふと気がつくと頭から消えている。ちょうど、あれほど鮮明で強烈だったはずの夢が、目覚めとともに急速に記憶の彼方に消えていってしまうように。だが、おかしい。芝居は夢ではなく、現実に目の前で演じられているはずなのに…
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夢が現(うつつ)か、現が夢か──
夢と現の間を(芝居も、そして現実の自分も)行き来しながら、「暗闇の演劇」である『盲人書簡』の世界をただひたすら辿っていくと、突然、衝撃のラストに行き着く。その瞬間、『盲人書簡』が「暗闇の演劇」であるということの本当の意味が明らかになる。闇とは光のない状態を言うのではない。光すらもまた闇なのだ、ということが。
そのラストを見た時、ヴァレリー・アファナシェフがアルバム『シューベルト:ピアノ・ソナタ18番<幻想ソナタ>』
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白の恐怖をそれと認めたり、あるいは享受したりさえする人々がいる。(この点で、マーレヴィッチの「白の上の白」を凌駕したり、それに匹敵するものは存在しない。そこでは、無限の白の上に幾何学的白が重ねられており、時の恐怖が永遠の恐怖よりあぼろげに立ち現れてくるといった風なのである。少なくともこの絵は、絵画の語法で、一個の人間が心理的に耐えることのできる境界を指し示している。)そして何度読んでもピンとこなかった、この記述が、『盲人書簡』を観た今なら、自分の中の深い感覚として本当によくわかる。
『盲人書簡』は、それを観た者を変容させてしまうという意味で、寺山修司の放った紛れもない傑作
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