あるスジ(と言っても、もちろんヤバいスジではない)からの紹介で、三浦展(あつし)氏の『下流社会』(光文社新書)という本を読んだ。バブル崩壊から15年、いわゆる中流階級の崩壊はかなり前から言われてきたが、そこで誕生しつつある新たな階層が下流である、というのが三浦氏の主張。今、ベストセラーになっているそうで、そう言えば雑誌の記事などで「下流××」などというタイトルが目に付くのは、そういうわけだったか。
で、その『下流社会』は、いきなり”あなたの「下流度」チェック”から始まる。それをここに引用すると、
□1 年収が年齢の10倍未満だ。
□2 その日その日を気楽に生きたいと思う。
□3 自分らしく生きるのがよいと思う。
□4 好きなことだけして生きていたい。
□5 面倒くさがり、だらしない、出不精。
□6 一人でいるのが好きだ。
□7 地味で目立たない性格だ。
□8 ファッションは自分流である。
□9 食べることが面倒くさいと思うことがある。
□10 お菓子やファーストフードをよく食べる。
□11 一日中家でテレビやインターネットをして過ごすことがよくある。
□12 未婚である(男性33歳以上、女性30歳以上の方)。
半分以上当てはまると、かなり「下流的」だとか。これをやってみたら、あ~オイラ下流じゃん。なんてこった(笑)。
ちなみに、三浦氏による「下流」像とは
・生活レベルは中の下で、食うや食わずの困窮生活を送る「下層」とは違う。
・コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲など、人生の意欲が総じて低い。
・その結果として、所得が低く、未婚率が高い。
確かに、以前からあったフリーターに加えて、新たにニートが社会問題化しつつある。どちらも、もろにこの「下流」に位置する人たちと言えるだろう。彼らの存在は、将来の税制や社会保障のあり方を含め、国家の根幹を揺るがしかねないと危惧されている。…が、私はあえて言いたい。「下流」でなぜいけない?と。
1980年代末期、東欧を中心に社会主義政権が次々と倒れ、世界はそれまでの「資本主義対社会主義」の構図から「全部が資本主義」へと転換した。その結果として「グローバル・エコノミー」というものが生まれた。まあ、グローバルとは名ばかりで、実態はアメリカン・ローカル至上主義なんだけど、イデオロギー的な対立軸が消えて真っ平らになった世界に、アメリカ流「経済原理」だけを教条的に当てはめてしまったワケ。そして、それによって生まれた、怪物化した資本主義(これをオイラは勝手に、モンスター資本主義なんて呼んでるけれども)が今、世界を危機に追いやろうとしている。
そもそも資本主義ってヤツは、欲望をエネルギーに、拡大し続けていかないと自壊してしまうシステムだ(だからこそ、インフレよりデフレが、あれほど恐れられるのだ)。しかしそこには、「地球の有限性」という制約が待っている。アメリカのように「地球環境問題なんか関係ないね」という考え方もないではないが、それは余りに身勝手というもの。
社会が一定レベルを超えて豊になり、必要なものは取りあえず何でも揃っており、病気などで寝たきりの状態でもない限り、まず飢えることはない--そんな中、「意欲が低下する」というのは、地球に住まう「地球共同体」の一員としての人類の、言わば当然の帰結ではなかろうか。もしそれによって社会が立ち行かなくなるとするなら、それは社会の在り方がそもそも間違っているのかもしれない。むしろ「下流」という生き方は、これからの時代に不可欠なものになるとも考えられる。そう、「下流」でGO!だ。
…というのは私の考えで、そんなことは『下流社会』には全く出てこない。『下流社会』で三浦氏が危惧しているのは、階層が固定化されることで、社会の活力が失われてしまうのではないか、ということだ。「下流」は所得が低い。ゆえに、例えば「下流」の階層に生まれてきた子供は、「上流(という言い方が適当かどうかわからないが)」の階層の子供に比べて、親から投資される金額は必然的に少なくなる。結果として高いレベルの教育が受けにくく、いい仕事にも就きづらい、ということが起こってくる。また、そうやって階層ごとの差が明確になってくると、社会の一体性も失われていく、と。
これについては、確かに何とかしなければならない。本人が自ら望んで、あるいは本人の努力不足で、その人が「下流」なるのは仕方がないとしても、それが子々孫々までついてまわる、というのはやはり理不尽なことだ。そのためにも、さまざまな形で起死回生のチャンスを社会が用意しなければならない。小さなところでは、奨学金制度の抜本的な見直しなどは不可欠だろう。それと同時に、経済成長を前提とした社会の在り方を(本当は世界的に)変えていくべき時に来ていることを考えなければならない。例えば江戸時代というのが一つの手本になるだろう。
と、『下流社会』はいろいろなことを考えさせてくれる一冊である。
で、その『下流社会』は、いきなり”あなたの「下流度」チェック”から始まる。それをここに引用すると、
□1 年収が年齢の10倍未満だ。
□2 その日その日を気楽に生きたいと思う。
□3 自分らしく生きるのがよいと思う。
□4 好きなことだけして生きていたい。
□5 面倒くさがり、だらしない、出不精。
□6 一人でいるのが好きだ。
□7 地味で目立たない性格だ。
□8 ファッションは自分流である。
□9 食べることが面倒くさいと思うことがある。
□10 お菓子やファーストフードをよく食べる。
□11 一日中家でテレビやインターネットをして過ごすことがよくある。
□12 未婚である(男性33歳以上、女性30歳以上の方)。
半分以上当てはまると、かなり「下流的」だとか。これをやってみたら、あ~オイラ下流じゃん。なんてこった(笑)。
ちなみに、三浦氏による「下流」像とは
・生活レベルは中の下で、食うや食わずの困窮生活を送る「下層」とは違う。
・コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲など、人生の意欲が総じて低い。
・その結果として、所得が低く、未婚率が高い。
確かに、以前からあったフリーターに加えて、新たにニートが社会問題化しつつある。どちらも、もろにこの「下流」に位置する人たちと言えるだろう。彼らの存在は、将来の税制や社会保障のあり方を含め、国家の根幹を揺るがしかねないと危惧されている。…が、私はあえて言いたい。「下流」でなぜいけない?と。
1980年代末期、東欧を中心に社会主義政権が次々と倒れ、世界はそれまでの「資本主義対社会主義」の構図から「全部が資本主義」へと転換した。その結果として「グローバル・エコノミー」というものが生まれた。まあ、グローバルとは名ばかりで、実態はアメリカン・ローカル至上主義なんだけど、イデオロギー的な対立軸が消えて真っ平らになった世界に、アメリカ流「経済原理」だけを教条的に当てはめてしまったワケ。そして、それによって生まれた、怪物化した資本主義(これをオイラは勝手に、モンスター資本主義なんて呼んでるけれども)が今、世界を危機に追いやろうとしている。
そもそも資本主義ってヤツは、欲望をエネルギーに、拡大し続けていかないと自壊してしまうシステムだ(だからこそ、インフレよりデフレが、あれほど恐れられるのだ)。しかしそこには、「地球の有限性」という制約が待っている。アメリカのように「地球環境問題なんか関係ないね」という考え方もないではないが、それは余りに身勝手というもの。
社会が一定レベルを超えて豊になり、必要なものは取りあえず何でも揃っており、病気などで寝たきりの状態でもない限り、まず飢えることはない--そんな中、「意欲が低下する」というのは、地球に住まう「地球共同体」の一員としての人類の、言わば当然の帰結ではなかろうか。もしそれによって社会が立ち行かなくなるとするなら、それは社会の在り方がそもそも間違っているのかもしれない。むしろ「下流」という生き方は、これからの時代に不可欠なものになるとも考えられる。そう、「下流」でGO!だ。
…というのは私の考えで、そんなことは『下流社会』には全く出てこない。『下流社会』で三浦氏が危惧しているのは、階層が固定化されることで、社会の活力が失われてしまうのではないか、ということだ。「下流」は所得が低い。ゆえに、例えば「下流」の階層に生まれてきた子供は、「上流(という言い方が適当かどうかわからないが)」の階層の子供に比べて、親から投資される金額は必然的に少なくなる。結果として高いレベルの教育が受けにくく、いい仕事にも就きづらい、ということが起こってくる。また、そうやって階層ごとの差が明確になってくると、社会の一体性も失われていく、と。
これについては、確かに何とかしなければならない。本人が自ら望んで、あるいは本人の努力不足で、その人が「下流」なるのは仕方がないとしても、それが子々孫々までついてまわる、というのはやはり理不尽なことだ。そのためにも、さまざまな形で起死回生のチャンスを社会が用意しなければならない。小さなところでは、奨学金制度の抜本的な見直しなどは不可欠だろう。それと同時に、経済成長を前提とした社会の在り方を(本当は世界的に)変えていくべき時に来ていることを考えなければならない。例えば江戸時代というのが一つの手本になるだろう。
と、『下流社会』はいろいろなことを考えさせてくれる一冊である。
確かに、別に下流でもいいじゃん、と思いました。
でもそれが階層の固定化に繋がるのでしょうか。
いろいろ考えさせられますね。
問題なのは、下流はイヤだから脱却しようと思った時、それが可能な仕組みが社会の中にビルト・インされているかどうか、だと思うのです。それがないと、階層の固定化→社会の分断、という流れが起こることは十分考えられます。
ただ、下流は所得が少ないため既婚率も低い、ということを考えれば、代々下流にいる家系は必然的に減少していくので、他の階層から下流に落ちて/入ってくる人たちがいない限り、下流もいずれは消えていく→(少なくとも下流という)階層の固定化はない、という論も成り立つような…
さて、本当のところはどうなんでしょうね。