世界各地では相変わらずテロという名の、抵抗という名の、民族解放という名の、国を守るという名の、戦争が続いている。そして、そういった紛争で傷つくのはいつでも、最も弱い者たちだ
。そうした現場に直接立ったことはないが、ニュースなどで流れる映像を見るたびに、やりきれない思いが胸の中に沸き立つ。最近、そうした戦争はなくすことはできないのか──いや、どうしたらなくすことができるのか。それを考えていて、ふとあることに気づいた。
今も「人々よ、もっと愛し合おう。愛の力で戦争をなくそう」といったスローガン/考え方が発信されている。こうしたことを聞いたり見たりすると、ちょっとジーンとなって「そうだ、愛の力で世界を救おう」とつい考えたくなってしまうが、それは本当に正しいのだろうか?
「愛する者を守るため、我は死にゆく」みたいな戦争映画のコピーを見たことがある。その映画は決して戦争を賛美するものではないが、戦争というものを考えていた時、このコピーのように、どうもその底には「愛」というものがあるのではないか、と感じた。「愛」の対象は別にある特定の人であると限らない。民族に対する愛、国家に対する愛、思想信条に対する愛、住んでいる土地に対する愛、築いたカネや地位に対する愛…どんな争いごとに中にも共通してあるものは、何かに対する「愛」だ。
「愛」を「何かに対して執着し、それを持っていない時は何としても手に入れたいと願い、それを持っている時は何としても失いたくないと思う心」だと言い換えると、その本質が更にハッキリしてくる。
ところで、よく「愛の反対語は?」という質問に、「憎しみ」などとマヌケな答えをする輩がいるが、もちろんそれは間違いだ。「憎しみ」とは「何かに対して執着し、それを何としても手に入れたいと願いながら、手に入れられない、あるいは、それを何としても失いたくないと思いながら、失ってしまうこと」であり、「愛」がネガティヴな方向に変化した同義語だ。「愛」はまた、容易に「欲望」へと転化し得る。「愛」は「充たされることを望む心」だからだ。
考えてみてほしい。遥か過去から現在に至るまで、「愛」という要素を持たない戦争があっただろうか。
例えばイラク戦争。石油利権を手に入れる、独裁者を倒して民主化する、パパ・ブッシュがフセインに暗殺されそうになったことに対する報復──開戦の目的はさまざまに言われているが、その根本にあったのは超大国の力と威信を世界に知らしめるという、アメリカの「自己愛」だったのではないか、と私は思う(ただ、ホワイトハウスやペンタゴンの愛したのは、「唯一の超大国にして正義の国」という「理想上のイメージの中のアメリカ」であって、「アメリカ国民一人ひとり」でなかったのは明らかだ)。
そして、ひとたび戦争が起こると、国はさまざまな手段を講じて、国民一人ひとりに国家や体制、国土に対する「愛」を植え付ける。そうした「愛」の気持ちさえあれば、国民の多くは戦いをいとわないことを経験的に知っているからだ(ちょうど「愛する者を守るため、我は死にゆく」のように)。
「愛」こそが戦争の根底にある。ならば「愛を、もっと愛を」と叫ぶ者たちこそ、実は無自覚なままに戦争を作り出し、あるいは激化させているのかもしれない──こう書くと、こんな反論をする人がいるだろう。
「そんな奇妙な結論になってしまうのは、『愛』の対象が狭すぎるからだ。世界中の全ての国、世界中の全ての人、世界中の全ての思想、…そうしたもの皆がを同じように尊重し愛すれば、争いはなくなる」
確かにそうだ。世界中の全ての人々が、いつでも世界中の全ての人を、ものを、同じように尊重し愛するなら、争いはなくなるかもしれない。
しかし、そうなったとしたら、この世からは「愛」という感情、「愛する」という行為は、消えてなくなるだろう。なぜなら、世界中の全ての人々が、いつでも世界中の全ての人を、ものを、同じように尊重し愛するなら、そうした感情は、行為は、もはや当たり前にあって他と区別できないという意味で、存在しないのと同じだからである。つまり、こう言うことができる。争いがなくなるのは「愛」が存在しなくなった時である、と。
では、最初の問いに戻ろう。戦争をなくすにはどうすればいいのか?
それについても、私は答を出している。その答は──人々がもっと無関心になることだ。国土を蹂躙されようと、周りの人たちを虐殺されようと、自分の思想信条を否定されようと、全く無関心でいられたら、そこに争いごとは生じない。
そう、「愛」の本当の反対語は「無関心」なのだ。そして、それは「愛」の対極、「愛」の存在しない状態である──。
もうサンタクロースからはプレゼントをもらえない、あなたのために、私からのささやかなクリスマス・プレゼント
YouTubeから
さだまさしの『遙かなるメリークリスマス』
を贈ります。
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今も「人々よ、もっと愛し合おう。愛の力で戦争をなくそう」といったスローガン/考え方が発信されている。こうしたことを聞いたり見たりすると、ちょっとジーンとなって「そうだ、愛の力で世界を救おう」とつい考えたくなってしまうが、それは本当に正しいのだろうか?
「愛する者を守るため、我は死にゆく」みたいな戦争映画のコピーを見たことがある。その映画は決して戦争を賛美するものではないが、戦争というものを考えていた時、このコピーのように、どうもその底には「愛」というものがあるのではないか、と感じた。「愛」の対象は別にある特定の人であると限らない。民族に対する愛、国家に対する愛、思想信条に対する愛、住んでいる土地に対する愛、築いたカネや地位に対する愛…どんな争いごとに中にも共通してあるものは、何かに対する「愛」だ。
「愛」を「何かに対して執着し、それを持っていない時は何としても手に入れたいと願い、それを持っている時は何としても失いたくないと思う心」だと言い換えると、その本質が更にハッキリしてくる。
ところで、よく「愛の反対語は?」という質問に、「憎しみ」などとマヌケな答えをする輩がいるが、もちろんそれは間違いだ。「憎しみ」とは「何かに対して執着し、それを何としても手に入れたいと願いながら、手に入れられない、あるいは、それを何としても失いたくないと思いながら、失ってしまうこと」であり、「愛」がネガティヴな方向に変化した同義語だ。「愛」はまた、容易に「欲望」へと転化し得る。「愛」は「充たされることを望む心」だからだ。
考えてみてほしい。遥か過去から現在に至るまで、「愛」という要素を持たない戦争があっただろうか。
例えばイラク戦争。石油利権を手に入れる、独裁者を倒して民主化する、パパ・ブッシュがフセインに暗殺されそうになったことに対する報復──開戦の目的はさまざまに言われているが、その根本にあったのは超大国の力と威信を世界に知らしめるという、アメリカの「自己愛」だったのではないか、と私は思う(ただ、ホワイトハウスやペンタゴンの愛したのは、「唯一の超大国にして正義の国」という「理想上のイメージの中のアメリカ」であって、「アメリカ国民一人ひとり」でなかったのは明らかだ)。
そして、ひとたび戦争が起こると、国はさまざまな手段を講じて、国民一人ひとりに国家や体制、国土に対する「愛」を植え付ける。そうした「愛」の気持ちさえあれば、国民の多くは戦いをいとわないことを経験的に知っているからだ(ちょうど「愛する者を守るため、我は死にゆく」のように)。
「愛」こそが戦争の根底にある。ならば「愛を、もっと愛を」と叫ぶ者たちこそ、実は無自覚なままに戦争を作り出し、あるいは激化させているのかもしれない──こう書くと、こんな反論をする人がいるだろう。
「そんな奇妙な結論になってしまうのは、『愛』の対象が狭すぎるからだ。世界中の全ての国、世界中の全ての人、世界中の全ての思想、…そうしたもの皆がを同じように尊重し愛すれば、争いはなくなる」
確かにそうだ。世界中の全ての人々が、いつでも世界中の全ての人を、ものを、同じように尊重し愛するなら、争いはなくなるかもしれない。
しかし、そうなったとしたら、この世からは「愛」という感情、「愛する」という行為は、消えてなくなるだろう。なぜなら、世界中の全ての人々が、いつでも世界中の全ての人を、ものを、同じように尊重し愛するなら、そうした感情は、行為は、もはや当たり前にあって他と区別できないという意味で、存在しないのと同じだからである。つまり、こう言うことができる。争いがなくなるのは「愛」が存在しなくなった時である、と。
では、最初の問いに戻ろう。戦争をなくすにはどうすればいいのか?
それについても、私は答を出している。その答は──人々がもっと無関心になることだ。国土を蹂躙されようと、周りの人たちを虐殺されようと、自分の思想信条を否定されようと、全く無関心でいられたら、そこに争いごとは生じない。
そう、「愛」の本当の反対語は「無関心」なのだ。そして、それは「愛」の対極、「愛」の存在しない状態である──。
もうサンタクロースからはプレゼントをもらえない、あなたのために、私からのささやかなクリスマス・プレゼント
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理想としては全くおっしゃるとおりです。
ただ一般に、人はあるものへの「愛」が深ければ深いほど、それを外れたものに不寛容になり、強い憎悪の念を引き起こすことが多いように思われます。宗教戦争などは、その最たる例でしょう。
私は決して「愛」を否定しているわけではありません。私にも愛しているものはたくさんありますし。
ただ、「愛によって地上に平和が訪れる」というのは欺瞞だ、という結論
自分だけの倫理・世界観で事物を捉えぬように、可能な限り様々な『愛』を体感しておきたいもんですよ。
う~ん、難しい!
私は以前から、善と悪とは陰陽のように表裏一体のものだと思っていて、「戦争の根絶」というものを自分なりに考えた時、そうした切り口──一見、最も遠い関係にあるように思えることが、実は不可分一体のものとしてある──でとらえると何が見えるだろう、ということでやってみた結果が上に述べたようなことです。
ま、思考実験のようなものだったのですが、そう言えばテレビを視ると、夏でもないのに妙に戦争がらみの特番をやっているなぁ、と。
何かちょっと不気味なシンクロニシティ