また本が増えすぎてしまって、一部を処分することにした。が、処分する前にもう一度読んでおこうと思ったのが、古賀史健の『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社新書)だった(ちなみにこの本については以前、「サバイバルス・キルとしての文章作成技法」という記事を書いたことがある)。そう思ったのは、この本が文章作成のいわゆるノウハウを記した本であり、この機にもう一度目を通しておきたかったからだ。
実際に再読してみるとノウハウ部分は意外によく憶えていて、これなら読み返す必要はなかったかな、と思ったが、最後の部分で目が止まった。この本は文章の書き方を講義形式で示していて、第0講に当たるガイダンスと、第1講~第4講で構成されているのだが、古賀は第4講の最後で、このように述べている。
本講義を締めくくるにあたって、ひとつだけ言っておきたいことがある。
文才、あるいは才能についての話だ。(中略)
才能とはなにか?
天賦の才能という言葉があるように、そもそも才能とは先天的なものであり、最終的には「ある」「なし」の二元論に行き着いてしまうものだ。ある人にはあるし、ない人にはない。それが才能というものだろう。
そしてもし、「自分には才能がない」となった場合、どうなるだろうか?
諦めの材料にしかならない。
はっきりと言っておこう。
自らの才能を問う人は“諦めの材料”を探しているだけだ。もっと言えば夢をあきらめる“言い訳”を探しているのだ。なぜなら、本当の“天才”は「自分には才能があるのか?」などと考えない。あなたが本当に“天賦の才”を持っているのなら、自分の才能など1ミリも疑うことなく、ひたすら前に進んでいるはずだ。(後略)
この下りに、私は昔読んだある話を思い出した。細かい部分は記憶が曖昧だが、富野由悠季に(だったと思う)若い人が「自分はアニメーターになれますか?」と聞いてきた。それに対する富野の回答は「本当にアニメーターになる人は、そんな質問してる時間があれば絵コンテ切ってる」。
英語では「天職」のことをcallingという。それは「その職に就くように神から呼ばれた」という意味だが、逆にいえば「神から呼ばれれば、本人の意志など無関係に否応なくその職に就かなければならない」という意味でもあるだろう。そういう意味では、仮に才能というものが本当にあるとしたら、それば「祝福」であるとと同時に「呪縛」でもあるのかもしれない。
だとすれば「才能がない」と嘆く必要はない。なぜならそれは、その人が(その分野において)何物にも縛られず「自由」である、ということなのだから。
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