治療院なんてものをやっている人間が、あまりおおっぴらに表明することじゃないのかもしれないが…
私は基本的に患者に対する同情心というものを持ち合わせていない。別に意図的にそうありたいと思っているワケではないのだが、そうなのだ。「腰が痛くて仕事にも行けず、大変なんです」などと言われれば、「そうですか。それは大変でしたね」と言葉を返すが、それは一応、治療家という立場でもあり、商売でもあるので、そう答えているだけで、心からそう思っての言葉ではないことは、言っている本人が一番よくわかっている(白々しいので、「それは大変でしたね」のようなセリフは、あまり言わないようにしているが)。
そもそも、体を悪くするのは(意識的にせよ無意識的にせよ)ほとんどがその本人の責任であって、自分で体を壊しておいて「壊れちゃったー」と言われてもねぇ…と思ってしまうのだ。もちろん、治療院とはそうした人を治療しておカネをいただいているワケだから、そのことを悪く言うことはできない。では、思っていることとやっていることが矛盾しているのか、というと、そうでもない。
一般的な身体モデルというのは、それ自体は意思を持たない数多くのパーツが、脳という中央制御システムに一括管理され、その指示のもとに指示されたとおりに動く、というものかもしれない。しかしここ3年くらい、フォーカシングを治療に取り入れてきて、わかったことがある。
体を構成している各部──脳であれ、内臓であれ、骨であれ──は、それぞれが独立した意思を持ち、自分たちの与えられた役割に誇りと責任を持っている、ということだ。つまり身体とは、中央の決定に地方が盲目的に従う絶対王政の中央集権的モデルではなく、それぞれの地方が非常に高い独立性を有しながら相互にもつながりを持ち、同時にゆるやかな中央からの支配も受ける連邦制モデルに近いのである。
そして、体を壊している人の多くは、その人を体を構成している要素である彼ら(という呼び方をあえてするが)が、非常に過酷な状態で働かされ、疲弊しているのが感じられる。体を壊すのは本人の責任だが、そんな人に使われている彼らを私は本当に哀れに感じるし、何とかしてあげたいと心から思う。私が治療をしているのは、患者本人のためではなく、彼らのためでなのだ。
この間も、クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)で頭蓋をホールドしながら、患者に頚椎へのフォーカシングをしてもらった時、フォーカスしてすぐ頚椎が「待ってたよ」とばかりに光を発するのが感じられ、「あぁ、こいつ、こんなに待っててくれたんだ」と思ったら、鼻の奥がツンとしてちょっと泣きそうになってしまった。
そして、ここ2年くらい思うのは、患者を治療することは会社を再建するようなものなんだ、ということ。例えば、悪い箇所を外科的に切除するのは、不採算部門をバッサリ切り捨てるのに等しい。ただ医師でもない我々には、そんな手は使えないので、私が患者に言っているのは、
「あなたは彼らのオーナーではあるけれど、支配者ではないんです。もちろん『俺の体なんだから、何しようと俺の勝手だ』でもいいけど、会社の経営者と従業員の関係に置き換えてみてください。経営陣が従業員を奴隷のように使うような会社は、たとえ一時的に業績を伸ばすことができても、すぐダメになっていくでしょう。オーナーが無茶苦茶なことをしていれば、従業員だってやる気を失うし、我慢の限界を超えれば反乱を起こすことだってあるんです。だとしたら、オーナーであるあなたの役割は、会社なら従業員に当たる彼らが気持ちよく働けるような環境を作ってやることじゃないですか。それがあなたの責任です」
ということ。それでも、わかってもらえなくて、自分という会社が傾いたことの責任を自覚することをせず、ちゃんと働かない従業員が悪い、みたいな考えから脱却できない人は相変わらず多い、というのが悲しい現実である。
私は基本的に患者に対する同情心というものを持ち合わせていない。別に意図的にそうありたいと思っているワケではないのだが、そうなのだ。「腰が痛くて仕事にも行けず、大変なんです」などと言われれば、「そうですか。それは大変でしたね」と言葉を返すが、それは一応、治療家という立場でもあり、商売でもあるので、そう答えているだけで、心からそう思っての言葉ではないことは、言っている本人が一番よくわかっている(白々しいので、「それは大変でしたね」のようなセリフは、あまり言わないようにしているが)。
そもそも、体を悪くするのは(意識的にせよ無意識的にせよ)ほとんどがその本人の責任であって、自分で体を壊しておいて「壊れちゃったー」と言われてもねぇ…と思ってしまうのだ。もちろん、治療院とはそうした人を治療しておカネをいただいているワケだから、そのことを悪く言うことはできない。では、思っていることとやっていることが矛盾しているのか、というと、そうでもない。
一般的な身体モデルというのは、それ自体は意思を持たない数多くのパーツが、脳という中央制御システムに一括管理され、その指示のもとに指示されたとおりに動く、というものかもしれない。しかしここ3年くらい、フォーカシングを治療に取り入れてきて、わかったことがある。
体を構成している各部──脳であれ、内臓であれ、骨であれ──は、それぞれが独立した意思を持ち、自分たちの与えられた役割に誇りと責任を持っている、ということだ。つまり身体とは、中央の決定に地方が盲目的に従う絶対王政の中央集権的モデルではなく、それぞれの地方が非常に高い独立性を有しながら相互にもつながりを持ち、同時にゆるやかな中央からの支配も受ける連邦制モデルに近いのである。
そして、体を壊している人の多くは、その人を体を構成している要素である彼ら(という呼び方をあえてするが)が、非常に過酷な状態で働かされ、疲弊しているのが感じられる。体を壊すのは本人の責任だが、そんな人に使われている彼らを私は本当に哀れに感じるし、何とかしてあげたいと心から思う。私が治療をしているのは、患者本人のためではなく、彼らのためでなのだ。
この間も、クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)で頭蓋をホールドしながら、患者に頚椎へのフォーカシングをしてもらった時、フォーカスしてすぐ頚椎が「待ってたよ」とばかりに光を発するのが感じられ、「あぁ、こいつ、こんなに待っててくれたんだ」と思ったら、鼻の奥がツンとしてちょっと泣きそうになってしまった。
そして、ここ2年くらい思うのは、患者を治療することは会社を再建するようなものなんだ、ということ。例えば、悪い箇所を外科的に切除するのは、不採算部門をバッサリ切り捨てるのに等しい。ただ医師でもない我々には、そんな手は使えないので、私が患者に言っているのは、
「あなたは彼らのオーナーではあるけれど、支配者ではないんです。もちろん『俺の体なんだから、何しようと俺の勝手だ』でもいいけど、会社の経営者と従業員の関係に置き換えてみてください。経営陣が従業員を奴隷のように使うような会社は、たとえ一時的に業績を伸ばすことができても、すぐダメになっていくでしょう。オーナーが無茶苦茶なことをしていれば、従業員だってやる気を失うし、我慢の限界を超えれば反乱を起こすことだってあるんです。だとしたら、オーナーであるあなたの役割は、会社なら従業員に当たる彼らが気持ちよく働けるような環境を作ってやることじゃないですか。それがあなたの責任です」
ということ。それでも、わかってもらえなくて、自分という会社が傾いたことの責任を自覚することをせず、ちゃんと働かない従業員が悪い、みたいな考えから脱却できない人は相変わらず多い、というのが悲しい現実である。
音素診について調べていて、先生のブログを見せていただき、大変参考になりました。また、私のブログをお読み下さり、合わせて御礼申し上げます。
今後ともよろしくお願いします。
>ウル@俺の家さん
ブログ、ご覧いただきありがとうございます。ぜひまた来てください
仕事はまったくの畑違いですが、元来東洋医学及びその思想に啓蒙を受け、身体の声が聞けたらと日々あれこれ実践しております。
私は七星先生の患者でありまして、個人的に師事させて頂いてるのですが、七星先生のブログの記事を見てこちらにお邪魔いたしました。
これからちょくちょく閲覧させて頂きますm(__)m
宝玉に出会った感じです。
先生のブログ楽しいので、全部拝読させて戴く予定です。
私も、「自分は患者のことを真剣に考えています」なんて事は無く、鍼1本で完治する様になれば、鍼灸師をしていない気がしますし、早くそうなりたいと願っております。
今後とも、宜しく御願い致します。
(人様のことを言うのも何ですが)多くの治療家が「自分は患者のことを真剣に考えています」「心から、その人のために治療しています」みたいに書いているのを見るたび、ずっとコンプレックスを感じていました。「あぁ俺、こんな気持ち、全然持ってねぇや」と。
今回は、そうした自分の気持ちをクリアにするために、反発を受けることを覚悟で書いたものです。このようなコメントをいただき、とてもうれしいです。またいらして下さい。
いつも拝見させていただいています。
最近自分の中で
人の健康には私たちが代謝や機能のバランスを保つというのが重要であるな
と 考えているところでした。
会社の責任者のようなものである
という考え方を見て
『なぜバランスを保つのが重要なのか』ということ さらに深く考えることができ、
私の中で小さな答えがみつかったようで、大変嬉しく思いました。
ありがとうございます!
またお邪魔します。