11/19、新宿梁山泊の『唐(から)版 犬狼都市』を見に行った。これは元々、6月に新宿花園神社で公演されるはずだったものが新型コロナの感染拡大で中止になり、今回はキャストを変更して、場所も下北沢の特設紫テントに変わった。
テントが建ったのは、チラシによると下北線路街空き地となっているが、実際には住宅地の真ん中であり、開演前の座長、金守珍(キム・スジン)の口上では、当初は換気をよくするためテントの側面を葦簀(よしず)にしていたら、近隣住民からうるさいと苦情が来て、密閉型に戻したのだとか。そのため、逆に前後からの空気の通りをよくして換気できるようにしたらしい(ついでに、客席が冷えるかもしれないということで、休憩時間に劇団員が甘酒を売っていたが、19日を含めて公演のあった頃は季節外れの暖かさで、夜だったものの私自身は全く寒さは感じなかった)。しかも、夜9時半以降は一切音は出さない、という近隣との取り決めになっているとかで、舞台は時間厳守で行うと。
この『犬狼都市』は唐十郎が澁澤龍彦の同名の作品に着想を得て書いたもので、1979年に状況劇場によって初演された。実は唐は、やはり同じ澁澤龍彦の『犬狼都市』に着想した『盲導犬』という芝居も書いていて、こちらは蜷川幸雄の演出で1973年に新宿で初演された。『盲導犬』の方は、蜷川による再演と、唐と久保井研の共同演出による唐組公演を見ているが、私が『犬狼都市』を見るのは今回が初めてである。
『盲導犬』が不服従の盲導犬、ファイキルを追う物語なのに対して、『犬狼都市』は人の言葉を話す犬、ファラダを巡って展開する。例によって、唐十郎の書く話は初見では分からないことだらけだが、ファラダを見つけ出すことができれば東京の地下にあるという犬田区が浮上して大田区を塗りつぶすとか、そんな話だったと思う(間違ってたらスマン)。
こういう「実はこの世界は偽りであって、××することによって隠されていた真実の世界への扉が開かれる」というのは妄想の定番のようなものだが、この作品が書かれた70年代末期という時代性を考えると、60年代~70年代初頭に全国に燃え広がった“革命幻想”の最後の残照を表していたのかもしれない。『犬狼都市』のラスト、いつものように舞台奥が開いて、登場人物たちが「舞台」という虚構の世界から「現実」という真実の世界へと消えていくが、そこには必ず通過儀礼のような血の贖(あがな)いがあり、向かう先も単純な“幸せの地”などではないことが暗示される。
そんな『盲導犬』そして『犬狼都市』の初演から50年近くが経過して、革命どころか“革命幻想”でさえ遠い過去の話となった日本が今、新型コロナ・パンデミックによって虚構性をはぎ取られ、変革を迫られているというのは皮肉な話だ。
私は7月に半年ぶりに東京に行って以来、月イチくらいの割合で芝居を見に(しかもなぜか全部、下北沢に)行っているが、この日を含めて東京では一日の新規感染者が500人超の状態が続いていたせいか、今回は今までで一番危険だと感じた。
会場では、お客はマスクの着用、検温、手の消毒が求められ、チケットの半券も自分でちぎって箱に入れる(ただ、中に入ると座席はいつもの新宿梁山泊のテント公演と変わらない)。そこまで徹底してもキネシオロジーの筋反射テストで調べると、少なくとも1人コロナを持ってる(ここでは「コロナに感染している人」だけでなく「衣服などにコロナ・ウィルスが付着している人」も含め“コロナを持ってる”と呼ぶことにする)と覚しき人がいた。これは7月からこれまで4回、舞台公演を見に行ったが初めてのことだ。
それだけでなく、行き帰りの際にエスカレータに乗っていて少しベルトに触れただけで筋反射テストをすると手にコロナを持ってると反応が出て、あわててトイレを探して手を洗うというようなことがあった。
実際のところ、ベルトに触れたことで付着したウィルスで感染リスクがどのくらい高まるかは分からないが、現在、東京では感染者が大幅に増えているだけでなく、その感染経路も追えなくなってきていると言われているが、その理由の一端はこんなところにあるのかもしれない。感染を避けるためには入念な手洗いが重要ということは知られていても、何かものに触れるたびに手を洗うようなことは普通しない。が、今の東京(だけでなく感染拡大地域)では、もうそのくらいしなければならなくなりつつあるようだ(いっそのこと、消毒用アルコールを常時携帯するか)。
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