2023年春アニメが放送中だが、その中の『地獄楽』第2話を見ていてふと気づいたことがある。職業、生業を意味する「業(ぎょう)」と、人の生まれ持った運命や性向、それがもたらす行為を表す「業(ごう)」が同じ文字だということに。
以下、ここではアニメ『地獄楽』第1、2話の一部ネタバレが含まれるので、未見の方はご注意。
まずは、その『地獄楽』のPV動画を。
物語の舞台は江戸時代後期。蓬莱、極楽浄土、神仙境などと呼ばれる伝説の島が琉球の更に南に見つかる。だが、幕府は数度にわたって調査隊を送るも1人を除いて誰も戻らず、戻った者も人でないものになり果てていた。そこで幕府は「死んでもかまわない者」すなわち刑死を待つばかりの重罪人を選び、「不老不死の仙薬」を持ち帰れば無罪放免にする、という「公儀御免状」を楯に、見張り役である首切り役人、山田淺エ門(注1)たちの同行のもと、島に送り込む。
その罪人の中に、“伽藍”(つまり空っぽ)の異名を持つ伝説の抜け忍、画眉丸(がびまる)と、山田淺エ門の1人で彼の監視役を務める佐切(さぎり)がいた…。
『地獄楽』で、佐切は山田淺エ門の娘で、女ゆえ本来なら首切りに携わる必要はないのだが、山田家に生まれた者は人の死と無関係ではいられない、と自らの「業(ごう)」と向き合うために首切り役人となった。幼い頃に見た、父が罪人を斬首する時の一切の感情を排した迷いも恐れもない太刀筋、それゆえ罪人に全く恐怖も苦痛も与えない一刀を目標としているが、刀を振るう時、いまだに迷いや恐れが捨てきれない。
そんな佐切は、画眉丸の「人を殺しておいて平気なわけあるか?」、「綺麗に殺(や)れば恨まれないのか?」という言葉に大きな気づきを得る。「自分に欠けていたのは殺しを怖れぬ強さではなく、殺した命を背負う覚悟だったのだろうか?」と(注2)。
(注1)山田淺エ門(正しくは山田淺右衛門)の山田家は、江戸初期から明治初頭まで実在した、御試御用(おためしごよう)を役を仰せつかった一族で、その当主は代々、淺右衛門の名を継いだ。御試御用とは本来、刀剣の試し切りをする役職だが、その他に罪人の刑死にも携わった。フランスでルイ王朝時代、王室から罪人を処刑する職務を命じられ、ムッシュー・ド・パリと呼ばれたサンソン家と同様、山田淺右衛門家もまた、斬首の手際のよさで人々の尊敬をつけると同時に、恐怖、憎悪、嘲笑の対象でもあったようだ。
(注2)ちなみに、これと同じ気づきがアニメ『Vinland Saga』2期第9話に(そして多分、アニメ『進撃の巨人』完結編(前編)にも)出てくる。これらは(偶然なのだろうけど)いずれもMAPPAが制作している、というのが面白い。
さて、話を一番最初に戻そう。「業(ぎょう)」と「業(ごう)」に同じ「業」の字が使われていることだった。
世の中には天職だとか「好きを仕事に」といったことが、しばしば言われるが、職「業(ぎょう)」に就くとは、実は己の「業(ごう)」を担うということなのではないだろうか。とすれば、天職は自分の「業(ごう)」の中にしかあり得ない。実際、さまざまな分野で名をなした人たちを見ると、その多くは人一倍「業(ごう)」の深そうな人たちだ。そう考えると、「好きを仕事に」とか「ワクワクすることをやりなさい」という、一見フワフワしたように見える言葉が意味するのは、自分の「業(ごう)」を見定め、それを背負う覚悟を問うものであるのかもしれない(まぁ本当に軽いフワフワした気持ちでそんなことを言っている人も少なくないと思うがww)。
あなたが見定め、背負うべき「業(ごう)」とは何ですか?
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