やれやれ
徹夜の介護は大変だ。
体内時計が狂うし解消すべく日中寝ていても、顧客からは容赦なく連絡がくる。
基本的にわが職場は個人事業みたいな感じて皆仕事してるので、誰が何してるのか知らないし、誰か突然死したら収拾はつくだろうがすぐに契約解除になると思う。
法人としてどうなの?とも思うが、別に私の会社ではないし(自分が事業者なら体制として許さないが)勤務が不規則でも今のところクビになってないので大変ありがたい。
今のところ親1は体調が悪い時と良い時の落差が激しく、悪い時は毒親が皆に「今から死んじゃう」メールを無限に流してくる。(メール流せる時点でそもそも死なない)
皆オオカミ少年状態に慣れすぎて心が揺らぐ兄弟は少なくなってきたと思うが、私は他の兄弟がどう感じるかは別にして自分がやれることはやったと思うので、別に死に目に会えなくて良い。
それよりも、安楽死が認められないせいで、鎮痛剤も痛み止めも効かない中、いつ死ねるかも分からない拷問のように苦しい思いをし続けるのが気の毒だなと思う。
全身点滴や薬の副作用の内出血だらけ、腹水胸水で溺れるような窒息感、腎不全による腰と背中の痛みで寝れない日々が続くようだ。
無論我が親だけでないだろう。
どの高齢者も終末期の拷問のような痛みや苦しみを味わい続けるのが仏になる条件だとしたなら、なんとも酷い神のルールだな、と思う。
そうして、惨いな酷いなと皆思いながらも特にこの問題については皆タブー視して話も検討もされてないということが、
宗教から科学の時代へと言われながらも、それはこの2世紀ほどで進んだ外観のみで、宗教というまだ事実かわからない神への虞れを感じている人間の精神はそうそう断絶しないのだな(科学は進歩しても精神はそうそう進歩しない)と、人間という存在を不思議に思う。
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