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老人にも自由はある

2025-01-31 | つれづれ
ベイビーから成年までは「まだ1個体として正しい判断ができるまで意思が完全ではないもの」として権利の制限と保護が受けられるわけだけれど

人間が老いて痴呆になっていって「かつて1個体ではあったけれど老化により正しい判断ができなくなってしまったもの」の制限は、年齢で一括りにできず個体の老化具合によって変わってくるので、成年後見や任意後見や、「こうなったらもう1個体として無理ね」みたいなのがベイビーから成人になったときとは違って公的な基準がない(実際上一律には適用はされず請求があれば審査して云々)ものだから、色々と実生活上ではコンフリクトが起こる。

老人本人も詐欺にあったりして不利益を被る。

概して、老人はかつて成人として出来ていた人であるので、「自分はまだ出来ている」という自認と他人から見た「実際に出来ているかどうか」という他認識には差異が産まれやすい。

他認識からすると(でも出来てないじゃん……)みたいなものも、個人の尊厳を尊重しているがために伝えることはできず、伝えたとて本人は受け入れる気はなく、まぁ老いるとはそういうものだもんねいやしかし、というモヤモヤを抱えたままその人が死するまで続くことになる。ある意味平和な世界だ。

とはいえ、画一的な基準がないがゆえに公的には完全なる1個体としての自由と権利を主張することはできるので、主張するのは自由である。
個体としての尊厳は法律上守られている。

周りとしての対応とすれば(あなたがそれを意思決定したのだから、その意思決定に関する責任もおってくださいね)と思っておくしかない。

最終的には、実態上ほんとに1個体として責任をその人が負えるわけがなく、基本的にはその家族及び血族(及び社会)に行くわけだが(自由と権利はあるから意思決定はしてよい。でも1個体としての尊厳と自由を守るために周りの助言を横においてその選択をしたのだから結果が思ったものと違ったからといって他人のせいにするのはおかしい)というマインドは老人側も周りも必要だと思っている。

老人側としては、自分の思っている「当たり前」と今ここの「当たり前」は違うのだ、と常日頃意識しておかないと(できないのにプライドだけ一人前でもう行動は一人前ではない◯害)と思われかねない。

◯害だと思われてもいい!と思うのは自由だが、結果について他人のせいにはしないほうがいい。
(ヤダヤダヤダ〜自分の言う事聞いてー!グヌヌ)と思ったところで、誰も自分で判断したくせに人のせいにする人なんかのことは言う事聞くわけはなく、真の孤独になるだけだよ、とも思う。

真の孤独を受け入れた人は、好きに生きて良いと思う。

良く孤独死が…という話であたかも不幸そうな論調をみるが、彼らは真の孤独を受け入れた人なだけだと私自身は思っている。

時代の流れ(主に技術的な時代の流れ)が早すぎて、「私達はそうしてきた(お前等もするのは当たり前だ)」、と言ったところで、地球環境も、人間の状態も、技術水準も、私達がそうしてしてきた時代と今は違う。

私にもついていけないことが増えてきた。

就職氷河期も、老人も、若人も、男も女も、みんな自分の人生に起こった(起こる)時代的な不幸な不利益は認めたくないんだな、と最近の論調を見て思う。

産まれてしまったのがその時その場所だったから、その時その場所なりに生きていくしかない。

外圧のない時代など昔から今までないのだけれど、自分の身に起こるものは一切排除したいのは人間だから当たり前か。

生き物は生まれてしまったが最後生老病死という四苦を負うので、あ~ほんと早く解脱したい、と思いながらやり過ごすしかないのかしら。

やれやれ、かくも面倒な存在よ。

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