24日の早朝、ケアセンターから「呼吸が止まっています」と電話があった。
即、駆け付けた。まだ温かかった。
医師が来て状態を確認、死亡を告げられた。
葬儀社に連絡して家に連れてきてもらった。
25日葬祭場に移動してお通夜、26日葬儀と普通に流れた。
(爺様の時は友引だったな・・・)
コロナの事もあるので精進落としの会食はせず、お弁当形式にして葬儀が終わった段階で引き出物と一緒にお渡しした。
葬儀後、帰宅する方と火葬場に行く方に分かれた。
火葬場迄お付き合い下さったのは婆様の実家系数人。
私は姉にも弟にも火葬場は来ないで欲しいと告げた。
婆様の妹一家・姪なども帰ってくれた。
火葬場はどんな人たちと一緒になるか分からない。時間も長い。最低限の人数で済んでホッとした。
初七日のお経も葬儀の日に上げてもらい、済ませた形になっている。
「七日のお経迄上げますか」と言ったのはお坊さんの方からだった。今はこんな形が多いらしい。
これから多々の手続きが待っているんだろうけど、相続人しかできない夫の仕事。
私は四十九日の食事処は押さえたし、忌明けの品でも考えるかな。
まだ何もしたくはないんだけど。
1977年からの「嫁」を卒業した。
今の心境は真っ平で何の感情もない。ただ、「おわった」と言うこと。
即、駆け付けた。まだ温かかった。
医師が来て状態を確認、死亡を告げられた。
葬儀社に連絡して家に連れてきてもらった。
25日葬祭場に移動してお通夜、26日葬儀と普通に流れた。
(爺様の時は友引だったな・・・)
コロナの事もあるので精進落としの会食はせず、お弁当形式にして葬儀が終わった段階で引き出物と一緒にお渡しした。
葬儀後、帰宅する方と火葬場に行く方に分かれた。
火葬場迄お付き合い下さったのは婆様の実家系数人。
私は姉にも弟にも火葬場は来ないで欲しいと告げた。
婆様の妹一家・姪なども帰ってくれた。
火葬場はどんな人たちと一緒になるか分からない。時間も長い。最低限の人数で済んでホッとした。
初七日のお経も葬儀の日に上げてもらい、済ませた形になっている。
「七日のお経迄上げますか」と言ったのはお坊さんの方からだった。今はこんな形が多いらしい。
これから多々の手続きが待っているんだろうけど、相続人しかできない夫の仕事。
私は四十九日の食事処は押さえたし、忌明けの品でも考えるかな。
まだ何もしたくはないんだけど。
1977年からの「嫁」を卒業した。
今の心境は真っ平で何の感情もない。ただ、「おわった」と言うこと。