映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

『ある女の存在証明』 ミケランジェロ・アントニオーニ

2012年12月05日 22時26分27秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『ある女の存在証明』 - IDENTIFICAZIONE DI UNA DONNA -
1982年 123分 イタリア/フランス

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni
製作  ジョルジョ・ノーチェラ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    ジェラール・ブラッシュ
撮影  カルロ・ディ・パルマ
音楽  ジョン・フォックス

出演
    トーマス・ミリアン
    ダニエル・シルヴェリオ
    クリスティーヌ・ボワッソン
    マルセル・ボズフィ
    ララ・ウェンデル


分からない

分からないことを分かりにくく描いた映画.始めから終りまで分からないことばかり、なので、逆に考えると分かりやすいと言えるのかも.この映画で分かることはほんのわずかしかないのです.

と言うことで、分かることをまとめてみましょう.
1.姉が産婦人科医.そして劇団の俳優の女の子は、他の男の子供を宿している事が分かって別れることになるけれど、子供を生むと言うことが描かれているとしておきましょう.
2.男女のSEXが描かれました.
3.自分の前から黙って去った女性、レスビアンらしい.

この3点を簡単に関連付けてみると、男女のSEXも、レスビアン、つまり女同士のSEXも同じである.
ただし、子供を作らないとしたのならば.
付け加えれば、オナニーの好きな娘が出て来ましたが、彼女も同じことが言えそうです.

さて、分からない、この事がどのような意味を持つのでしょう.映画を観て分からないということは、観た者にとってその映画、無意味なのですね.
こう考えれば、男女のSEXに関連した分からない出来事ばかり描いているこの映画が意味する事は、男女のSEXは無意味である、こう言っているのだと考えて良いでしょう.
SEXで何か意味を持つとしたら、それは子供を作ることであり、それ以外は二人だけの問題、それを観て他人がどうのこうの言ってみても、何も意味を持ちません.
主人公が映画監督、SEXを他人にみせても無意味、つまりはSEXを描いた映画は無意味、全部まとめるとこうなるらしいのですが.
作品の年代からすると、此の頃から性描写の規制が緩くなり、SEXの描写がスクリーンに多く登場するようになった頃なのでしょう.SEX描写に何か意味があるように描く映画監督を、アントニオーニ流に批判した作品であると思います.

最後のSF、太陽系の誕生の謎を探る宇宙船でしたっけ.宇宙の誕生の謎は生命の誕生の謎でもあると言えます.人間がなぜ生まれてきたのか、こう問う時、両親がSEXしたからだ、と答えても全く意味がありません.SEXが無意味であるとはこの様な観点から言えること.ですから、娯楽だけが目的の、すけべ映画を否定するものではないと思います.




宇宙の誕生=太陽の誕生=生命の誕生の謎




それだけ
















何かが大好きな、スケベな子ばかり








































『欲望』- BLOWUP - ミケランジェロ・アントニオーニ(1966年 111分 イタリア、イギリス)

2012年12月05日 07時02分33秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『欲望』- BLOWUP - (1966年 111分 イタリア、イギリス)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni
製作  カルロ・ポンティ
原作  ジュリオ・コルタザール
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エドワード・ボンド
撮影  カルロ・ディ・パルマ
音楽  ハービー・ハンコック

出演
    デヴィッド・ヘミングス
    ヴァネッサ・レッドグレーヴ
    サラ・マイルズ
    ジェーン・バーキン

馬鹿


一台の車に鈴なりになって騒ぎまくる若者の一団は、どうみても人間の屑のかたまり.
さて、主人公たるこの写真家はと言えば、たまたま公園で見かけた逢い引き中のアベックの写真を、なにがなんでも公にすると言う、肖像権と言う意識のかけらも無い人間.
骨董品店の店番のお爺さんが、この写真家の正体を一番端的に現しているみたい.
「安いものはないから無駄だ」、つまり、おまえは金にしか興味がないだろう.その通り、ゲイが歩いているから値上がりするかどうかは知らないけれど、この男、店を安く買いたたくためにやって来たのだった.
目の前で埃を吹き飛ばして、これは、モデル志願の二人連れの女の子を「汚らわしい」と言って置き去りにしたお返しなのかも.
芸術とは素直な心、写真が持つ芸術性が見えない物を写す、つまり人の心を写すものであるとすれば、ゴシップ写真で人を困難に陥らせるものではない.
また、ある一面において写真が真実を伝えるものであるならば、殺人に気が付いた時点で警察に届けるべきはずなのに、自分のスクープを優先して届けようとはしなかった.言い換えれば、真実より興味の方が、真実よりお金の方が先にある人間と言える.
写真にすべきでない事柄を写真にしようとする人間は、写真にすべき事柄を写真にすることができない、結果としてこうなったようだ.













テニスをやっているふりをする馬鹿の一団.乞われるままにボールを投げ返すこの男.
分かりやすく書けば、映画『夜』で描かれたのは、自分の書いたラブレターを覚えていなかった小説家.
この映画で描かれたのは、無いボールが見える写真家.
後から前の方へ辿れば、窓越しに他人のSEXをぼけっとして観ているこの男は馬鹿.
ロックバンドが演奏しながらギターを叩き壊して、壊れたギターを観衆が奪い合い、結局そのギターを道端に捨ててしまう.全部馬鹿げたこと.
モデルになりたい二人の女の子、結局裸になって馬鹿騒ぎ.
もう一度、骨董店のお爺さん、お客を見事に馬鹿にする.













赤い砂漠 ( ミケランジェロ・アントニオーニ 1964年 116分 イタリア)

2012年12月05日 05時37分44秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『赤い砂漠』 -IL DESERTO ROSSO-(1964年 116分 イタリア)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ
製作  アントニオ・チェルヴィ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
撮影  カルロ・ディ・パルマ
音楽  ジョヴァンニ・フスコ

出演
モニカ・ヴィッティ
リチャード・ハリス
カルロ・キオネッティ
ゼニア・ヴァルデリ
リタ・ルノワール


-異常な出来事を、異常な出来事と理解すること-




ピントをぼかして映し出される工場群、煙突から天空に向かって吹き上げる炎、この時点で赤い砂漠とは、人々の暮らす環境を、公害で汚染された環境を意味していることが、誰にでも薄々感じられることと思います.

映画に入る前に、アントニオー二がこの映画を撮るに至った経緯を、私なりに簡単にまとめておこうと思います.

沿革1.公害、及び公害に対する認識
日本では水俣病、ヨーロッパではライン河がどぶ河になり、北アメリカの五大湖では釣った魚を食べることができなくなった.公害がどんどん深刻さを増していったのはこの映画の撮られた頃.けれども、高度成長の直中にあって経済成長が優先され、公害対策、公害防止などという考えは、人々の意識に存在しないと言わなければならなかった.(非常に薄い問題意識しかなかった)
沿革2.芸術家としての使命感
公害そのもの、その実態を描き問題提起するのは、新聞でありテレビであり、そうしたメディアの役目である.映画の役目、芸術の役目とはそうした問題にかかわる人々の心を描くことにある、アントニオーニはこう考えたはず.そのために、前衛的表現を用い全体をオブジェで構成した.

さて、映画に入りましょう.この映画の場合、順序立てて物語を追う作品ではありません.書きやすいように順序は前後しますが、映画全体を捉えるこに注視します.
異常と人間性.結論を先に書けば、公害という異常な出来事に対してどの様に対処すべきか、そこに置ける人間性を問いただすことを目的とした映画である.その過程において、あるいはその目的のために、変(異常を想わせる)な人々が描かれる、こう考えると、映画全体がなんとなく見えてくるのでは.

人間性.「あなた、右?、左?」、ジュリアーナに聞かれてコラドは、「ぼくは人間性を信じている」と答えるのですが、この言葉を、映画全体を修飾する言葉として拾い上げておきましょう.公害に対する考えは思想、信条の問題ではない.イデオロギーの問題ではなく人間性の問題であると言ったのです.

変な人、あるいは変なやつら、人間性としてこう想わせるような色々な人間が、ジュリアーナの回りに描かれる.海辺の小屋の宴会.変な出来事.SEXに関する人間性を描いた出来事、としておきましょうか.

子供の玩具.ジュリアーナが異常をきたした原因が夫婦関係にあるのが、なんとなく窺い知れると言ってよいでしょう.子供の玩具、時代の最先端と言ってよい玩具ばかりなのですが、けれども幼稚園の年頃の子供の心を育てる玩具であるかと言えば、何か違うみたいに想えます.これらの玩具は父親が揃えた物と考えるのが自然、他方、子供が病気を装って母親にねだったのは、昔話でした.夫と妻の子供の教育に対する人間性の違いが、心のすれ違いの原因が描かれているみたい.

夫とコラド、この二人のジュリアーナとの関わりがやはり一番重要.夫のジュリアーナに対する態度、ジュリアーナに対する理解は冷めた感じを受けます.それに対してコラドは、ジュリアーナを理解しよう、なんとか理解しようと努めているのですね.ジュリアーナの病気、つまり異常な出来事に対しての理解にかかわる人間性を、夫とコラドによって描いています.

海辺で戯れる少女の挿話もオブジェですね.人間嫌いの少女は自然と戯れて過ごすのが好き.その回りに不思議な出来事が起きる.歌声がするが姿は見えない.どこからともなく聞こえてくる歌声は、自然が彼女を呼んでいる、と言ってよいのでは.
「小さな岩たちはまるで生き物のようだった.そして、その歌声はとっても優しかったわ」.映画全体がオブジェ、全体が異常を示すならば、その中のこのオブジェは、正常を示すと言ってよいのでしょう.

心を病んだジュリアーナが、公害そのものを、あるいは、公害を発生させ放置する、人間の病んだ心を現している.
ラストシーン.煙突を指さして「煙が黄色いね」、と、子供が聞く.「毒だからよ」とジュリアーナ.「鳥は知ってるから飛ばないわ」
ジュリアーナは医者から病気のことは考えるなと、病気を忘れれば治ると言われたみたい.忘れれば治る病気を忘れられない苦しみ、それが逆説的に示すものは、毒と知りつつも公害をまき散らし続ける、分かっていても直そうとしない、人間の社会全体の愚かさと言ってよいのでしょう.








『情事』 - L' AVVENTURA - ミケランジェロ・アントニオーニ

2012年12月05日 02時46分53秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『情事』 - L' AVVENTURA - (1960年 129分 イタリア)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ
原案  ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エリオ・バルトリーニ
撮影  アルド・スカヴァルダ
音楽  ジョヴァンニ・フスコ

出演  モニカ・ヴィッティ
    ガブリエル・フェルゼッティ
    レア・マッセリ


「言葉なんて役に立たない」人間
父親とアンナ
父親 「彼はお前と結婚しないよ」
アンナ 「結婚を望まないのは私よ」

アンナとサンドロ
アンナ 「いいえ話し合う必要があるわ」
サンドロ 「結婚すればもっと話し合える」
アンナ 「結婚なんて無意味よ、それにもう夫婦みたいなものよ」
サンドロ 「話し合ったって時間の無駄さ、言葉なんて役に立たない」、先に、結婚すればもっと話し合える、と言ったのだけど?.
言葉なんて役に立たない、ならば、何が役に立つのか?.(後々の出来事から行くと、彼にとって役に立つのはSEXだけらしい)

魚取りの男
「こんな時間から私が欲しいの」、彼が女の顔を見ただけで、女はこう言った.
男が覗き込むと、女は黙って足を上げた.そして、男は女の胸に手を入れる.
男も女も、情事をするのに、何も言葉を交わさなかった.情事に言葉はいらない.

サンドロとクラウディア
アンナが「一ヶ月も会えないなんて」と言った時、彼は「すぐ、慣れる」と言った.
でも、列車の中で、彼がクラウディアを求めたとき、クラウディアは「アンナが居なくなって、未だ3日しか経っていない」と言うと、彼は「短くはないさ」と答えた.
(物事を考える尺度が、自分の都合で変わる男であった)

「昔の建築の寿命は数世紀.でも今は、20年.だけど、やはり他人の設計した建物の構造計算をするより、自分で設計の仕事をしたい」、教会の屋上で言った、彼のこの言葉、とてもよく分かる気がする.
でも、翌日の設計者のエットレの家では、もう、気が変わっていたみたい.
クラウディア、「明日はあまり首を突っ込み過ぎないで.エットレと手を切るんじゃ」
サンドロ、「確かに、そう言ったけど」
(すぐに、気が変わる男であった)

教会の屋上で「結婚しよう」と、彼はクラウディアに言った.
翌日、「駄目、駄目、もう離さない」と、クラウディアは歌い出すけど、
「それじゃ後で」と、彼は1人で、博物館へ出かけた.
クラウディアが何か言っても、彼は知らん顔だった.
(自分の言いたいことを言うだけで、相手の言うことは聞こうとしない、人間であった)

博物館が開館時間を過ぎても、開いていなかった.「観光客をなんだと思ってるんだ」、怒った彼は、その博物館の建物を描いていた、若い画家のデッサンを、インクをひっくり返して駄目にしてしまった.
「わざとだろう」と言われても、彼は「わざとではない」と、言い張ったのだけど.結局は謝ったのか、いや、彼は謝りはしなかった.彼は殴りかかった若い男に、「自分も若い頃は血の気が多かった」と、こう言っただけで、ごまかしてしまった.
(意味不明のことを言って、ごまかす、人間であった)

友人のアンナが失踪し、その恋人のサンドロを好きになってしまったクラウディア、ラストシーンの直前の、彼女の気持ちを表す言葉.
「アンナが戻ってきて、彼と一緒にいるような気がして」、クラウディアはサンドロを探し求めていた.
「数日前まで アンナは死んだと思って、自分も死んだような感じがした」
「今は悲しみが消えて、彼女が生きてないかと恐れている」
サンドロを好きになったクラウディアは、アンナが戻って来ないことを願った.彼女はアンナが戻ってきてサンドロと一緒にいるのではないかという不安から、寝ることができなくて、邸宅の中をサンドロを探し求めた.そのサンドロは、別の女と寝てたのね.
そして、ラストシーン.
サンドロは泣いた.泣いて謝ったのでしょうが、そのサンドロに対してクラウディアは頭を撫でた.撫でただけで何も言わなかった.
(なんとも言いようが無い事をする男である.SEXすることしか考えていないから)

話を初めに戻して、
アンナは、一ヶ月も会えないなんて、耐えられない、いつも一緒にいたい、そうした気持ちでサンドロと話し合おうとしたのだけど、サンドロは「話し合ったって時間の無駄さ、言葉なんて役に立たない」と言って、彼女の話を聞こうとしなかった.
好き合った男女から、『一緒に居ること』、と、『話し合うこと』、を無くしたら、何が残るのか?.言葉のいらない、情事だけが残るのね.
アンナは、情事だけの関係のサンドロと、これ以上関係を続けることに耐えられなかったので、失踪した.
サンドロは、彼の言葉通り、「言葉なんて役に立たない」人間であった.きっと、クラウディアにも、よく分かったと思うけど.




口では良いことを言う人間なのだが.....


その美しい建物の、その前で、
やることは陰険そのもの.....
     いったいどういう性格なのだろうか?



実に白々しくとぼけて、

口車は上手い.が、何を考えてるのか、さっぱり分らない人間.

さすらい - IL GRIDO - (ミケランジェロ・アントニオーニ)

2012年12月04日 23時02分16秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
さすらい - IL GRIDO - (1957年 102分 イタリア)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本  エンニオ・デ・コンチーニ
    エリオ・バルトリーニ
    ミケランジェロ・アントニオーニ
撮影  ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽  ジョヴァンニ・フスコ

出演  スティーヴ・コクラン
    アリダ・ヴァリ
    ドリアン・グレイ
    ベッツィ・ブレア
    リン・ショウ


性悪女イルマ


「愛しているからこそ別れるの、一緒にいても傷つけあうだけだわ」
イルマの、この言葉を考えてみましょう.
この後アルドはイルマに暴力をふるい、「家に帰れ」と言った.それに対してイルマは「これで、おしまいね」と、そう答えて、本当におしまいになった.
「これで、おしまいね」=「暴力を振るうあなたを、もう愛せないわ」.
私はこう言っているのだと思うけど、だとしたら、愛していても別れるし、愛していなくても別れる、なんだこりゃ.
「愛しているからこそ別れる」とは、本当に身勝手な言いぐさ、自分に都合のいいだけの、巧妙で卑怯な言葉なのです.
相手のことを何も考えない人間だからこそ、こう言う身勝手な言い草を思いつくのでは.....






元恋人の優しいエルヴィア






荷物を届けに来たイルマと話をしたエルヴィアは、なぜアルドが自分を尋ねてきたか分かった.そして、同時にアルドの気持ちも良く分かったはず.なぜって、イルマに捨てられたアルドの気持ちは、以前にアルドに捨てられた自分の気持ちと、同じなのですから.
エルヴィアは独身だった.アルドに捨てられても、未だ、アルドを思い続けていたのでしょう.だからイルマに捨てられても、イルマを思い切ることができないアルド気持ちも、それも良く分ったはず.
未練は正しい愛情、あるいは正しい愛情を導き出すことができる感情なのだ.

エルヴィアは、自分はアルドの気持ちがよく分かるのだけど、だけどアルドが、自分の気持ちを分かってくれるかどうか.
彼女は、アルドと話をすることにした.

「話があるのよ」と、エルヴィアはアルドと共に、ダンスホールを出た.
「別れてからも、私の事を考えたりした」
「もちろんさ」
「早く結婚しろって祈ってたんでしょ」
「それが話し」
「つらい思いをしてたのよ、知ってた?」
「すまなかった」
「イルマにふられたから戻ってきたんでしょ」
「それもあるが」
「私に何かを求めても無駄よ、消えてちょうだい.消えて」
「自分でも分からない」

アルドは、今、自分がつらい想いをしているけど、かつて自分もエルヴィアを捨て、今の自分と同じつらい想いを、エルヴィアにさせたのだ、と、理解することができなかった.「すまなかった」と、口では謝ってるけど、気持ちとして伝わってくるものは、何もなかった.

「安らぎが欲しいんだ、俺には君しかいない」、アルドは、エルヴィアが独身で、今でも自分を想っている気持ちを、正しく理解することができなかった.「もし君も、僕に安らぎを求めてくれるのなら、僕は君のそばにいたい」、例えばこんな風に、相手の気持ちを察する言葉があれば、また成り行きは変わってくるのでしょうが.
「今朝、逃げるようにして出ていったわ」
「何か言ってた」
「ただ、出ていくって」
「なぜ」
「聞かなかったわ」
「がっかりした?」
「ええ」
彼女は、アルドが自分の気持ちを何も理解しようとしなかった.だから、がっかりした.




元恋人のエルヴィアに、かつて自分が辛い想いをさせたと言う自覚があれば、その相手の目の前で辛い表情を観せる事はないはずだ.






忘れることが出来ず未だ独身で居た.幾年も思い続けてきた男だったけど、けれどもアルドはその女心を全く理解してくれない、がっかりするしかない相手だった.


ガソリンスタンドの女




彼女は高慢知己で、なんとなく嫌な女に思える.ガソリンをこぼして沢山売ろうとする悪い女.彼女はアルドに抱かれたくて、娘が未だ寝てると嘘をついた.確かに良い女ではないのだけど.
彼女は、おじいさんが邪魔なので、施設に入れようと思うとアルドに相談した.けれどもアルドは「お前の問題だ」と言って取り合わず、彼女が施設に入れることに決めたら、「ひどい女だ」と、非難した.
男女が一緒に暮らして行くのなら、連れ子であっても二人の問題、親の問題も同じであり、二人できちんと話し合って決めなければいけないことではないのか.
父親の場合は酒ばかり飲んでいる、酒を取り上げると騒ぎを起こす、彼女が言うように手の負えない存在であり、一方的に「ひどい女」と非難すべき事ではないでしょうし、また、彼女にしても、好きな男と二人だけで暮らしたかった、なので、娘も親も邪魔だった面も事実でしょう.けれども、アルドがいなくなった後は、またおじいさんと一緒に暮らしていました.ですから、お爺さんのことも娘の事も、二人で話し合えば、分かり合えるものがあったのではないか、こう思えてなりません.












不幸な女
お金もない、食べ物もない.もうすぐ小屋は水没してしまう.娼婦の女は「何とかしようよ」と、アルドに相談するのだけど、アルドは話をまともに聞かず、「何もしない」と答えた.娼婦の女は仕方がなく、もう一度、体を売ることにする.
娼婦の女は売春宿に探しに来たアルドに、こう言うのだけど、アルドは黙って去っていった.
「不幸な女を軽蔑するの.身の上話をすれば、一ヶ月はかかるわ.どこへ行くの、待って、話を聞いて」
もう一度書けば、女が「話を聞いて」と言っているのに、アルドは何も言わずに去っていった.


















身勝手な男と、身勝手な女



何がどういいのか?.相手のことは全く考えない、自分だけ良ければいいという、見事な言葉.....


暴力では何も解決しなかった


さて、初めに戻って、イルマとアルド.まず、二人の会話から抜き出してみると、
アルド「もっと互いを思いやれば」
イルマ「いまさらどうなるの さようなら」
そして、「愛してるからこそ別れる、仕方ないのよ」と、イルマは言葉を続けるのだけど、その前の「いまさらどうなるの さようなら」、この言葉からは、イルマがアルドを愛しているとは思えません.「愛してるからこそ別れる」を、アルドの「もっと互いを思いやれば」に置き換えてみると、「いまさらどうなるの さようなら」と言う言葉には、相手を思いやる気持ちを見いだすことができないのが、よく分かります.
この会話のあと、イルマは男に会いに行くのですが、人だかりがしていて男の家に行けなくて、妹の家に行きました.そして妹にこう話します.「あの人だけど、年下なの、うまくいくかしら」
イルマは、どうしたら若い男と一緒になれるか、そればかり考えている.夫の死を役所で知らされ、「遺品を届けます」と言われて「結構です」と答えたけれど、イルマにとっては、夫の遺品と同じようにアルドもいらなかった.ただ単に別れたい、と思うだけで、アルドのことなど何も考えていなかったようです.






「ゴリアーノの街は、いつみても平和そうだな」、アルドが街を去る時、荷車の男が街を振り向いてこう言ったのだった.けれども、アルドが再び街に戻った時には、平和だった街は、空港建設を巡る騒乱の最中にあった.








日本の成田空港建設に伴い、空港用地をめぐって農民が三里塚闘争を起しました.イルマは新しい恋人、若い恋人と一緒になりたい、そればかり考えていて、アルドのことはもうどうでもよくて、きちんと話合おうとはしなかった.同じように、国が成田空港を作ろうとしたとき、空港を作りたい思いがあるだけ、農民の事などどうでもよく、きちんとした話し合いをしようとはしなかった.国の事業として空港を作るのは当然の事と考えて、農民の話を真面目に聞こうとはしなかったのです.簡単に書くと、警察の力で強制収容を行う国に対して、反対派はバリケードを築いて対抗したのですが、結局は力で排除されて終わりました.暴力を振るって「家に帰れ」と命令したアルドに対して、イルマは「これでおしまいね」と、答えたのですが、話し合いではない形で結論になったのは、どちらも同じです.
イルマはきちんと話をしないので、アルドはどうすることもできなかった.アルドの場合は自殺してしまったのですが、日本の成田空港の第二滑走路の建設に際しても、空港建設当時から変わらない問題を引きづって来たままだったのです.
付け加えれば、成田の第二滑走路の建設に際しては、国土交通省の大臣が直接農民との話し合いをしました.時代とともに、いくらかの進歩はあったようです.

まとめれば、話し合ったからと言って、必ず問題が解決するとは言えないけれど、話し合わなかったら何も問題を解決することはできない.これは、男女の場合も、国の事業の場合も同じこと.この映画は、男女の恋愛を通して、国と農民に、話し合え、もっと話し合わなければ、こう問いかけている.

さすらい
https://www.youtube.com/watch?v=3mZVQEebCpw