映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

自由への闘い(この土地は私のもの) - THIS LAND IS MINE - ジャン・ルノワール 

2013年01月31日 12時46分22秒 | ジャン・ルノワール
自由への闘い (この土地は私のもの) - THIS LAND IS MINE -
1943年 103分 アメリカ

監督  ジャン・ルノワール JEAN RENOIR
製作  ダドリー・ニコルズ DUDLEY NICHOLS
    ジャン・ルノワール JEAN RENOIR
脚本  ダドリー・ニコルズ DUDLEY NICHOLS
撮影  フランク・レッドマン
音楽  ロサー・パール LOTHAR PEAL

出演  チャールズ・ロートン CHARLES LAUGHTON
    モーリン・オハラ MAUREEN O'HARA
    ジョージ・サンダース GEORGE SANDERS
    WALTER SLEZAK
    KENT SMITH
    UNA O'CONNOR
    PHILIP MERIVALE
    THURSTON HALL
    GEORGE COULOURIS
    NANCY GATES
    IVAN SIMPSON
    JOHN DONAT


戦争の目的=侵略
『世界に平和をもたらして死んでいった者たちの碑』と、
『ヒットラーの侵略』の記事の新聞

本を燃やす行為
『この本はまずい.燃やそう』
『あなたのご意見かな、それとも敵の?』
『ユヴェナリス、ボーテ、プラトン.共和という言葉は危険です』
『辞職せよと』
『とんでもない.あなたには信用があります.問題を指摘したまで』
市長とソレル教授の会話からすると、市長は自分の意見で本を燃やそうと言ったようだ.

『難しい手術、心臓を取るが患者は死なせん.国の歴史にかかわる一大事』
『出来るだけのことはしよう.ここから始めよう』
ソレル教授は、アルバートとルイーズに本を破る事を話すとき、こう言ったのだった.
ソレル教授の意見なのか、敵の指示なのかよく分らないのであるが、
アルバートは、子供たちに、
『新しい本が来るまで、2、3訂正をしなさい』
『エドモンド、破いたページを集めて燃やしなさい』
ルイーズは、
『注意して破りなさい』
『出るときに破ったページを渡してちょうだい.元に戻す日がきっと来るわ』
と、言ったのだった.

『元に戻す日が来る』と言う女教師のルイーズ、『患者は死なせはしない』と言うソレル教授は、服従はするが屈服はしない、自分たちの意思による教育を止めはしないと言っている.
それに対してアルバートは、集めたページを燃やすように言ったのだった.ジョージは少佐に自ら進んで協力する人間であったが、自ら本を燃やす行為も、やはり侵略者に進んで協力する行為と言える.侵略者に自ら進んで協力することは、侵略者に屈服することに他ならない.

ルイーズと少佐
女教師のルイーズは、捕虜になったソレル教授を救うため、少佐の元へ訪れた.

『君らの間違った考えが子供に教授される.学校で教わるのだからね』
『教師は子供になんでも教えられる.子供たちは明日の兵士だ』
『10年前のドイツは、ここと同じだった』
『我々はソレルのような人間を追い出し、世界を征服できる人間を育てたのだ』
『そんなことは許しません』
『ジョージは我々の見方なのに、君は厄介な人間だ』
『占領の意味を教えてくださって、感謝するわ』

占領の目的とは、『ソレルのような人間を追い出し、世界を征服できる人間を育てること』、つまりは間違った教育を行い、侵略を行う人間を育てることであった.
見方を変えれば、少佐は、教育者が正しい教育を行う限り、真の侵略はあり得ない、と言っているのですが、このことは、ソレル教授、女教師のルイーズの考えと同じだったと言わなければなりません.
アルバートは最後の授業として、人間の権利の宣言を教えるのですが、侵略とは人間の権利を奪うことであり、この場合の正しい教育とは人間の権利に対する教育を行うことを意味します.

裁判
『妨害は負けた人間に残された、ただ一つの武器です』
アルバートは裁判の席でこう言いました.テロ行為を肯定する言葉であるのは間違いないのですが.
けれども、人質としてテロ行為の犠牲になって、10人の人間が処刑されましたが、『尊厳だよ』と言うソレル教授の言葉が現すように、彼らは取り乱すことなく、尊厳を持って処刑されました.尊厳を守るために命を惜しむことはなかったのです.
暴力行為に訴えた人間と、その犠牲になっても命を惜しむことがなかった人間、暴力の犠牲になっても、暴力を否定して処刑されたソレル教授たちと、どちらが勇敢な人間であったのか?.

戦争とは、撃ち合いを始めてしまえば、目的も何もない.殺すか殺されるかである.だからこそ、尊厳を守って銃殺されたソレル教授に依って、あるいは正しい教育を守るために、人間としての権利を守るために、命をかけることを選んだアルバートによって、戦争の目的をジャン・ルノワールは示したのだと思われます.
暴力を否定すること、人権を守ることは、すなわち、戦争を否定することに外なりません.戦争を否定することが戦争の目的とは、戦争を終わらせることが戦争の目的であると言うことが出来ます.
『外面は弱いが、内面は強い』、あるいはその逆と、アルバートはこんな風に人間は比較したのですが、現実には人間は皆、弱いと考えるべきでしょう.誰だって死ぬのは怖い、死にたくないですから.
今一度書けば、戦争とは殺すか殺されるかである.皆、死にたくはない弱い人間である.だからこそ、人間の権利を守るために戦うのだ、このことを忘れないことが大切である.

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ソレル教授がアルバートに語った事
『リーダーについて行きたいが2種類存在する』
『我々は武器もなく弱く行進もせず防空壕に入る』
『英雄は軍人で、我々は壁を背にして撃たれる』
『もう一方のリーダーには、銃や戦車や制服がある』
『暴力や利己主義や虚栄心しか教えられない』
『全てが未熟な子供たちの心にに訴え、そんな罪人が英雄なのだ』
『大変な競争だよ』
『自由への愛は子供には無意味だ.人類への尊重の念を生まない』
『だが我々から奪えない武器がある.尊厳だ』

子供たちは、教師の恋愛をからかい、クラスメイトをユダヤ人だといじめ、空襲の最中には爆撃機を当てあい、更には爆撃の真似をして騒いだ.
正しい教育をしなければ、未熟な子供たちは、『暴力や利己主義や虚栄心』を、容易に受け入れてしまう.だから、ソレル教授はアルバートに、教育者は非暴力によって、尊厳を子供たちに示さなければならないと語り、そして自らも銃殺時の態度によって示しました.

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拘置所で少佐がアルバートに語った事
『君に頼むことは、小さな犠牲だ』
『将来の世界平和のために命をかけているのだ』
『率直に言う、隠さずに.こんな話をするのは、君が聡明な人間だからだ』
『ランバートは道具だった.誠実だが賢くない』
『市長も自分の利益のために動いている』
『侵略した国には、そんな人間が必要だ』
『ドイツ国内にさえ.我が国が強くなった理由だ.そう言う人間を利用する』
『だから世界世羅に成功した』
『アメリカが安全なのは海が遮っているからだ』
『アメリカは陸と空による侵略を考えている.既に侵略されている』
『正直なランバートと、不誠実なマンビルはここだけでなく、ヨーロッパ中にゴマンと居る』
『我々にも平和は必要であり、もし平和が武器になるとすれば、真の愛国心は、その証を見いだすだろう』

アルバートの裁判での証言
『皆、外面と内面の二面性を持っている』
『マンビル市長でさえ二面性を持った人間なのです』
『二人とも強く見えますが弱いのです』
『外面では街を救うふりをしなければならず』
『内面では自分を救おうとする心を隠す』
そして、闇物資の話の後、こう言う.
『侵略はどんな国でもそうですが、我々が墜落しているから可能なのです』

アルバートは、法廷で真実を述べる道を選び、そして、法廷に集まった人々も、彼の真実を述べる勇気を支持しました.真実を述べることは、人間の権利を主張することに外ならないことだったのです.

さて、裁判にかかわる事柄で、侵略者の少佐も、侵略される側のアルバートも、立場が違うだけで、やはり同じことを言っています.
この二人を考え合わせれば、アルバートの言う『我々が墜落している』とは、侵略者の言いなりになること、人間の権利を認めない人間の言いなりになることでした.そう言う人間を利用して、ドイツは強くなったと、少佐は言っているのですから.
人間の権利を理解しない者たち、認めない者たち、彼らが武器を持てば侵略者になり、武器を持たなかったにしても、侵略行為の協力者になる.それは、どこの国においても同じである.
つまりは、皆がきちんと、人間の権利について学び、そして考えなければならない.

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『全ての階級から男たちが集まりました.金持ち、貧民、会社員.誰も戦わず、素晴らしい夜を過ごしたのです』

人間の権利の宣言(人間と市民の権利の宣言)
第一項
 全ての人間は生まれながらにして自由で平等である
第二項
 全ての政党の目的は、自然と人間の奪うことの出来ない権利を保護することである
 これらの権利とは、自由と財産の安全を守り、暴政に反抗することである
第三項
 政治の原理は国そのものにある
 団体、個人にかかわらず、人民から発せられていないどんな権力も効力を持たない
第四項
 自由とは自主性からなり、他を害するものではない
 (自由とは、他を害さないものである)
第五項
 法律とは、禁止する権利である
 法律とは、社会に有害なもののみを禁じる権利である
第六項
 法律とは、人民の意思の表現である
 全ての市民は一個人として、又はその構想の中で選出された代表者を通じて
 これに助力する権利を持つ
 保護しようと酷使しようと、同様であるべきである
 全ての市民は平等であり、全ての階級や身分や能力による、
 社会的地位についての平等な権利を持ち、差別されてはならない

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書き添えれば、
『世界平和のために戦うのだ』、このような言葉は、戦争を正当化しようとする人間の常套文句に過ぎません.少佐も何度か口にしたのですが、惑わされてはいけない言葉です.

太平洋戦争が、日本の侵略戦争であったことは、人間の権利、この視点で考えれば明白と言わなければなりません.
一例を上げれば、ベトナム、インドネシアでは、日本軍の食料の徴発にに依って、それぞれ、100万人とも200万人とも言われるほどの餓死者を出しました.食料を奪い取って、人間の権利を守ったとは、到底言うことは出来ません.
さらに言えば、日本は敗戦後、特殊慰安施設教会(RAA)を自ら作って占領軍を迎い入れた、人権とは無縁の最低の国でした.(現在がどうであるのか、ここでは触れずにおきます)

第二次大戦敗戦後の日本の指導者を、対米従属主義者と自主独立主義者に分けて評価する、自主独立主義者を善として考える人がいるのですが、単純にそう考えるのは間違っていると言わなければなりません.
アメリカであれ、敗戦国の日本であれ、正しいものは正しい.つまり、アメリカが人間の権利を主張すれば正しく、逆に無条件降伏の敗戦国であっても、人間の権利の主張は出来たのであって、対米従属、自主独立の問題ではなく、人間の権利に対する意識が問われなければならないはずです.

戦争を描いた映画

2013年01月27日 15時08分47秒 | 雑記帳
グリゴーリー・チュフライ
『女狙撃兵マリュートカ』
戦争、人殺しに、理念、真理は存在しない.人間どうしで分かり合えるもののない行為である.

ルネ・クレール
『巴里の屋根の下』
どの様にして相手に勝つか、争いに勝つことを考えれば、結果はより悲惨になるだけである.
どの様にして争いを避けるのか、それを考えなければならないはず.

ジャン・ルノワール
『大いなる幻影』
戦争は貴族という特別な人間の役目であった.普通の人間は、平和を求めることを考えるべきである.

『ラ・マルセイエーズ』
(第二次世界大戦を前にして)、今一度、戦争とはどの様なことか考えろ.なんのために戦うのか考えろ.

『自由への戦い(この土地は私のもの)』
教育者が正しい教育を続ける限り、真の侵略はあり得ない.決して民主主義は失われはしない.

『河』
戦争で負傷した方達も、夢、希望を持って生きていって欲しい.

『黄金の馬車』
貴族の権力の象徴であった植民地を、民主主義に時代に普通の国民が欲しがる行為は、欲張りに外ならない.

ルキノ・ヴィスコンティ
『地獄に堕ちた勇者ども』
普通に時代、狂気の時代でないならば、権力者に服従してはならない.
しかし、狂気の時代では、権力者に服従しないと殺されてしまう.
けれども、狂気の時代であっても、権力者に屈服してはならない.
すなわち、自ら狂気をはたらく人間になってはならないのだ.

チュフライの『誓いの休暇』は描かれたとおりで、却って書きにくいのですが、戦争を描いた映画の残りは、後3作、頑張って書こう.

間違っても中国と戦争をしようなんて考えないこと.降服すればよい話です.
経済的侵略、企業買収にあえば、工場の設備だけでなく、特許等の知的財産も相手に渡ることになるのですが、戦争で侵略されても、知的財産は失われることはありません.
どんな時代でも、相手に屈服することはあってはならない、それだけのことのはずです.

ラ・マルセイエーズ (ジャン・ルノワール 1938年 フランス)

2013年01月27日 13時19分22秒 | ジャン・ルノワール
『ラ・マルセイエーズ』
1938年 133分 フランス

監督  ジャン・ルノワール
脚本  ジャン・ルノワール
撮影  ジャン=セルジュ・プルゴワン
    アラン・ドゥアリヌー
音楽  ジョセフ・コズマ

出演
リーズ・ドラマール
ルイ・ジューヴェ
ナディア・シビルスカイア
ジュリアン・カレット
エドゥアール・デルモン
ピエール・ルノワール


愛国心
『国家とは全フランス人の友愛的結合体です.あなたであり私であり、あの漁船の漁師も』
『革命家にとって、平和な行動こそ、銃に勝る武器だ』

まず、ルイ16世から.
『大義名分は捨てなさい.武器をおけば平和な暮らしが出来る.戦えば悲劇が続く』
これは最後まで城を守り続けようとする兵に、降伏を呼びかけるアルノーの言葉でした.
パリの議会の代表が国王に降服を勧告するためにやってきた.貴族たちは『国王万歳..我が王よ.神が遣わせし者よ.君臨する唯一の者』と歌うのだけど、城を守る兵の多くは『国家万歳』を叫ぶ.誰から見ても勝ち目のない戦いであり、戦ってもいたずらに犠牲者を増やすだけの事は目に見えていた.毒蛇しか産まない国民を弾圧する声明書を公表した国王であったのだが、彼にすれば国を愛すればこそ、大義名分を捨て降伏したのでしょう.

スイス人の傭兵に言わせれば、戦いは『勝利か死だ.勝利を信じよう』であった.大義とは、一つには『国家や君主に対してつくす道』らしいのですが、スイス人ならば、フランスという国家に尽くす必要はなく、国王が投降してしまえば、君主に尽くす必要もなかったはずなのだけど?.
スイス人は国王の元に集まった貴族を、戦いの邪魔だと言い、更には国王が投降して気がねなく戦えると言ったのですが、スイス人達は戦うことだけが全ての人間、何も考えることなく、任務を果たすだけが全ての人間であったと言えます.

次は、投降を呼びかけるアルノーの言葉のすぐ後に、撃たれて死んでしまうボーミエ.
『我々スイス人が武器を捨てるのは死ぬときだ.あれは侮辱だ.持ち場を離れないし武装解除もしない』
『俺があんたなら逃げるね.アルプスの山に帰る.俺は山の暮らしを知ってる.三月を過ごしたが楽しかった』
銃声.

彼は腕利きの石大工だと自慢するが、煙突造りは下手だった.女に騙されお金を持ち逃げされる.はたまた、目の前にいる女の子の自分に対する気持ちも分らないでいた.なんとなく間抜けの人間だった.そして見事に犬死にする.彼の死は、戦争には何も役立たなかったのだけど.
『俺があんたなら逃げるね』、彼は、戦争を止めろと言って死んだのあり、戦争を止めるために命をかけたと言っても良いのでしょうか.
恋人のルイゾンの腕の中で息を引き取るボーミエ、彼は預かったお金をデートで使ってしまったことを告白する.彼は自分の悪事を『後悔しない』と言ったのだけど、誰も彼の悪事を責めたりはしないでしょう.
国家とは全国民の友愛的結合体だと、アルノーは言ったのですが、夫婦、あるいは好き合った男女の関係は、友愛的結合体の基本ではないのか.たとえ敵であっても、皆、家族があれば、恋人がいたりもする.戦争で殺し合うことは、友愛的結合体を壊すこと、愛国心とは言えないはずであり、愛国心とは戦争を止める、止めさせる心でなければならないはずである.

解説によれば、この映画はフランス革命を知っていることを前提に撮られたと書かれているけれど、当時でも100年以上前の出来事であり、フランス人でも、事細かに知っている人は限られていたのではないでしょうか.
今の日本で言えば、明治維新の経緯をどれだけの人が知っていると言えるのか?.ある程度の知識は必要としても、ある一面では、フランス人にも分りにくい出来事であったのではないでしょうか?.

『我が国を侵略した軍隊の総司令官が、オーストリア皇帝と、プロシャの皇帝と、私の個人名で発表した声明書の言葉を』、ルイ16世は皆で考えるように言った.彼も毒蛇しか生まない声明書と考えたようであったのだが、けれども最後は王紀に押し切られ、発表してしまったのだった.
マルセイユの集会で、女は、義勇軍に参加した恋人が敵前逃亡で処刑されたと訴えた.指導者が敵に寝返った為だという.彼女は目的がはっきりしない限り、マルセイユから義勇軍を送り出すことは出来ない、断固阻止すると訴えたのだった.
カラスを焼いて食べようとしていた者たちは、やはり指導者の貴族が裏切ったらしい.義勇軍に参加したことは間違いだったと話していた.村人は夫が縛り首になった、誰が私達を守ってくれるのだと文句を言ったのだけど、彼らにしてみればなんのために戦っているのか、分らなくなっていたのではないか.

『なぜ争う?、同じ軍服を着てるのに?』
『お前が共和派で、私が秩序派だから』
『秩序派がなぜ宴会の邪魔を』
『宴会だと、構えろ』
シャンゼリゼの騒動では、アルノーは相手の貴族に、なぜ争うのだと問い質したのだが、話しにはならなかった.

なぜ戦うのか、なぜ戦争をするのかと問うとき、お前が敵だからだ、と言うのは答えにはなっていない.なぜ戦うのか?、戦争の前に今一度問いだ足せば、戦争を行う以外の答えも見つかるかもしれないのだけど、スイス人達のように『勝利か、死か』『武器を置くときは、死ぬときだ』、初めに戦争ありきでは、何も見つかりはしないと言える.

第二次世界大戦勃発前のフランス、ドイツの侵攻を控えて、人民戦線が戦意高揚を計るために、ジャン・ルノワールに依頼して作った映画、と、解説にあるけれど.
ルイ16世の様に、無駄な戦いを避けて降服するのも一つの手段、今一度、戦争とはどの様なことか、なんのために戦うのか、国民に考えるように促す映画であったとしておきます.

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今一度、
『革命家にとって、平和な行動こそ、銃に勝る武器だ』
革命家でなくても、平和な行動こそ、銃に勝る武器である.

『国王万歳』と叫ぶ貴族たちは、ウサギと鯉の関係、到底相容れないドイツの援助で戦争を行おうとしました.
それに対して、革命派の者たちは、『国家万歳』と叫び、国民どうしの融和を前提として、侵略者と戦おうとしました.

国王とロシュフコー公爵
『何かあったのか?』
『市民がバスチーユ襲撃を』
『叛乱か?』
『いえ、革命です』
簡単に言って、良い王様を倒そうとすれば謀反であり、悪い王様を倒そうとするのは革命である.

マルセイユの海で漁をしながら、アルノーはこう言った.
『革命は貴族の金持ちが始めたが、貧乏人の俺達が終わらせるのだ』

日本の明治維新は、大名、武士が始めました.そして、第二次世界大戦に敗戦することによって、アメリカの力で終わったかのようになっているのですが、『貧乏人の俺達が終わらせる』、事にはなっていないようです.
日本人にとっては、明治維新を革命と捕らえる意識すらなくて、幕末の志士達が勝手にやったことであり、坂本龍馬は偉いと言った程度の認識しかないと、言わなければならないのが現状なのでしょうか?
明治の自由民権運動弾圧の時代から、それでも大正末期には、普通選挙法が成立する迄になったのですが、同時に成立した治安維持法によって、それまでの努力の全てが失われて行くことになりました.
まさしく『国王万歳..我が王よ.神が遣わせし者よ.君臨する唯一の者』、その一人のために、治安維持法があったとしておきます.

大いなる幻影 (ジャン・ルノワール 1937年 117分 フランス)

2013年01月26日 07時56分17秒 | ジャン・ルノワール
『大いなる幻影』 (1937年 117分 フランス)

監督  ジャン・ルノワール
脚本  ジャン・ルノワール
    シャルル・スパーク
撮影  クリスチャン・マトラ
    クロード・ルノワール
音楽  ジョセフ・コズマ

出演
ジャン・ギャバン
ピエール・フレネー
エリッヒ・フォン・シュトロハイム
ディタ・パルロ
ジュリアン・カレット
マルセル・ダリオ
ジャン・ダステ



日本で言えば江戸時代までは、戦争をするのは武士の役目でした.けれども、明治維新によって政治制度が変わることによって、富国強兵の名のもと、一般国民が戦争に駆り出される時代に変わりました.
江戸時代という武士が支配する時代が終わる時、封建制度が崩壊し、例え見かけだけにしても平等な時代に変わった結果、戦争の役目を普通の国民が負うようになりました.

フランスにおいても(ヨーロッパの諸国においても)、この点は日本と同じであったと言ってよいのでしょう.マレシャル中尉等、貴族以外の人間が将校になったことを『革命の恩恵だ』と、ラウフェンシュタイン大尉は言いました.今はなんでも平等の時代である.性病も貴族の特権ではなくなったと、会話の中で言っていますが、やはり、日本と同じように、戦争の役目を貴族だけでなく、皆平等に、一般国民も負うようになったと言ってよいでしょう.

第一次世界大戦は、オーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されたのを契機として、ヨーロッパの各国が次々に国家総動員令を発動し、ヨーロッパ全土に拡大して行きました.そして、戦争終結と共に、貴族社会が崩壊することになったのは、この映画に描かれるところです.

日本の武士と同様に、ボワルデュー大尉、ラウフェンシュタイン大尉に描かれるヨーロッパの貴族にとっても、命をかけて国を守る、国に仕えるのが彼らの役目でした.
ラウフェンシュタイン大尉は、負傷してやけどを負い、貴族であるのに、軍人としてでなく役人としてしか国に仕えることは出来ないのだと言いました.
捕虜になったボワルデュー大尉もまた、軍人としては国に仕えることが出来なくなったのですが、それでも貴族として、国に命を捧げる道を選んだと言ってよいのでしょうか.彼は命を捧げて、普通の国民である将校の、マレシャル中尉とユダヤ人のローゼンタール中尉の脱走を手助けしました.
ラウフェンシュタイン大尉は、同じ貴族として、ボワルデュー大尉に友情を求め、彼だけを優遇しようとしたのですが、それに対しボワルデュー大尉は、差別のない友情によって皆に接しました.そして、貴族として国民を守ることに命をかけたのでした.
ラウフェンシュタイン大尉は友人であるボワルデュー大尉、自分が撃ったボワルデュー大尉が、国民を守るために命をかけたことを知って、彼は改めて、貴族としての自身の役目を自覚したと言ってよいでしょう.

戦争をするのは貴族の役目であり、国民を守るのが貴族の役目である.
「戦争が終わると共に貴族社会も終わる」この、ラウフェンシュタイン大尉の言葉は、貴族社会の終わりと共に、戦争の時代も終わりにしなければならない、こう語っていると言ってよいのではないでしょうか.
ボワルデュー大尉は、母にも妻にもこんな言葉で話す、貴族の話し方で会話をするのだと言いました.ラウフェンシュタイン大尉もまた、貴族としての誇りを失わない人間でした.二人とも、普通の国民とは違う人間であったと言えます.マレシャル中尉は、俺達は金がなくなればただの貧乏人だが、貴族のボワルデュー大尉は、金がなくてもやっぱり貴族だと言いました.つまりは、普通の国民とは違う特別な人間の貴族が、戦争の役目を負っていたのであり、普通の国民が貴族に代わって戦争の役目を負ってはならないのですね.余計な物はいらない.性病が平等になっただけで、十分のはず.

さて、普通の国民として、普通の人間として命をかけて守るべきものは何か.それは、マレシャル中尉とユダヤ人のローゼンタール中尉の逃避行を通して描かれる.
ユダヤ人に対する虐待はナチだけの行為でなく、当時のフランスにおいても差別が行われたのは、やはり映画に描かれています.フランス人とユダヤ人との友情、ドイツ人のエルザとの恋愛は、当時の日本に当てはめれば、日本人と中国人あるいは韓国人との友情、日本人とアメリカ人との恋愛を描いていると言ってよいでしょう.
戦争をするのが特別な人間の貴族の役目であったのならば、普通の国民の役目は平和を守ることでなければなりません.

この映画が公開されたこの年に、ほとんど同時と言ってよい時期に、ドイツによりゲルニカの空爆が行われ、戦闘員、非戦闘員の区別なく犠牲になる、より悲惨な形に戦争が変化して行きました.事実として幻影であった言わなければならないのですが、けれども、だからこそ、と、訴えかけるのがこの映画と言ってよいでしょう.











はたらく一家

2013年01月26日 03時00分42秒 | 成瀬巳喜男
(1939/03/11 65min)

1937年7月、北支事変より日中戦争が始まり、1938年4月1日、国家総動員法により管理統制経済に移行し、戦時色を強めていった.社会問題を扱う映画の場合、軍国主義に傾倒して行く時代背景が、大きな影響を与えていることは、考慮しなければなりません.
そしてもう一点触れておけば、戦前は、高等教育よりも兵士、男の子の高等教育の学費は、べらぼうに高かったそうです.
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さて、はたらく一家.
現在でも、子供が3人いたら、大学まで行かせようとすると至難の業.
こんなに沢山子供がいたら、満足に学校へ行かせることが出来ないのは、現在でも同じです.
一番にいけないのは、子供が沢山いすぎることなのですが、この映画、何が言いたいのでしょうか?
と考えると、小学生くらいの子供が小銭を貯めていたのだけど.
隣家の結婚祝いだったと思うのですが、親が子供のお金を借りようとしたら、その子は、兄弟を引き連れて食堂へ行き、皆で好きな物を食べて、お金を全部使ってしまった.
その時、家族が何か困ったことになったかと言えば、特に困ったことにもならなかったのですが.それはさておき、親が親が子供のお金を当てにすること、それが間違っているのだ、と、この点は明瞭に描かれていると言えます.
子沢山は置いておくとして、親が子供の稼ぎを当てにしている事、これが一番いけないことであり、その点は、現在でも何も変わることはありません.

なんとも中途半端で終わってしまう感が拭えない点は、やはり成瀬巳喜男の演出のせいだと、非難を受ける事になるのでしょうか?.
けれども、現実の問題として解決策がない問題は、このような終わり方しか出来ないのも、事実と言わなければなりません.自分たちが変わって行かなければ解決しない問題なのですから.
こう考えると、戦時色とは関係のない作品なのですが、体制批判と受け取られないように余計な苦労をするような、やはり表現としては戦争の影響を受けているのではないのか?、もう2年ほど前に撮られていれば、もう少し違った演出が出来たのではないのか、と思えます.
(へたくそと言ってしまえば、それまでですが)