映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

映画『非行少女』 監督 浦山桐郎

2021年11月05日 19時50分11秒 | 邦画その他
映画『非行少女』 監督 浦山桐郎
公開 1963年3月17日 (114分)

監督  浦山桐郎
原作  森山啓『三郎と若枝』
脚本  石堂淑郎
    浦山桐郎
撮影  高村倉太郎
美術  中村公彦
音楽  黛敏郎
編集  丹治睦夫

出演
和泉雅子
浜田光夫
香月美奈子
杉山俊夫
高原駿雄
浜村純
小池朝雄
.....
北林谷栄
小林トシ子
沢村貞子
小夜福子
小沢昭一


トミコの家出
家出したトミコは一人で学園に戻ってきた.仲間と腐れ縁の切れないトミコは、売り飛ばされてバンスケにされるところだったと言う.
「逃げて来たん」
「ああ」
「相手は始めから悪い奴と分ってとんがやろ」
「そやけどあんた、うちらどうせまともな嫁さんになれるわけないやろ.そう思ったら阿保らしゅうなる」
「そんなこと無いと思うけんどな」
「和ちみたいな札付きはだちかん」
「あああ、和ちはやっぱここが一番ええわ」

ラジオの演歌.....私はやっぱり駄目なのね.....

「あんたがマラソンで助けてくれたとき、わてらだって人間だって言うたじゃないか」
「そげんなこと言うたかて、普通の人相手にしてくれんて」
「そんな弱虫じゃ」
「お前はべっぴんやさかい、ええわい」
「顔なんかじゃない、わてらを世間が相手にするかどうか、やってみな分らんじゃないか」

私はやっぱり駄目なのね、ラジオの歌を聴いた若枝は自分が歌の通りの駄目な女の子に過ぎず、悔しかったのだろう、タバコの火をラジオにこすり付けた.何がどう駄目なのか、それがこの映画の結論なのです.
トミコは「お前はべっぴんやさかい、ええわい」と言った.べっぴんじゃ無いと駄目だと言った.なぜべっぴんじゃないから駄目なのか.べっぴんじゃ無いと良い男が寄ってこないから駄目なのだ.つまりは、男を頼りにしているからそうなってしまうのであり、男に頼らないと生きて行けない女の子だから駄目なのです.
「顔なんかじゃない、わてらを世間が相手にするかどうか、やってみな分らんじゃないか」
若枝はトミコにこう言ったけれど、男に頼らずに生きて行ける女の子になれば、顔の問題では無いはずなのです.
若枝は自分が一人の自立した人間にならなければならないと思った.男に頼らずに生きて行ける人間にならなければと考えた.だから三郎に相談せず、洋裁を学ぶために一人で大阪へ行くことを自分一人で決めたのです.


ラストシーン
俺の事を好きかどうかと迫る三郎.大事なことをなぜ相談せずに自分一人で決めるのかと、若枝を責める.
三郎さんが好きだけど、それだけで何もない.そんな自分だから自分に自信が持てない」、若枝は泣きじゃくりながら答えた.三郎の優しさに甘えていても、ぐらつく自分は直らないのだと.....
泣きじゃくる若枝に、皆の視線が集中した.と.....テレビに、美人コンテストで賞金100万円を手にした女性のインタビューが流れ始めた.とたんに、居合わせた皆の視線はテレビへ吸い寄せられていった.

ピンボケの画像が繰り返されて、多分、三郎の心の内を描いているつもりだろうけど、けれども、分ったようで何も分らない描写に過ぎない.
「学園で考えを決めた君が分るような気がする.僕も一人になってもっと自分を掘り下げていってみるわ」
列車に飛び乗って、三郎はこう言ったけれど、映画で描かれた範囲では、若枝がなぜ学園で考えを決めたかは、三郎には分らないはず.美人コンテストで100万円貰ったテレビを見て三郎は若枝の気持ちが分ったらしいけど、なぜ分ったのかは、さっぱり分らない.
この描写は、完全に間違っている.若枝は三郎に引き止められて決心が揺らぎ始めたけれど、テレビを見て、決心を新たにしたと言うのが正解のはずだ.
若枝はトミコに「顔なんかじゃない」とはっきり言っている.つまり美人コンテストで100万円得たことに意味はないのであり、「顔なんかじゃない」事をもう一度想いだし、決心を新たにしたはずである.

泉雅子は食堂のシーンはセットで、浦山桐郎は一週間かけて何度も撮り直したと言っている.何度も撮り直したがやっぱり駄目だったのではないか.

映画は食堂から走り出して列車に飛び乗るが、私ならホームの階段の下で話をするシーンを加えたい.

二人は走ってホームの階段の下まで来た
「どうしたの」
「綺麗なだけのノウタリンの女が、100万円貰いやがって.縁遠いお金見せられると胸くそ悪くて腹が立ってきた」
「でも、私もノウタリンよ.それにやっぱり100万円欲しいわ」
「お前までそんな」
「だけど私、100万円よりも、三郎さんが大切」
三郎、返答に困る.
「三郎さん、どうして私に優しくしてくれるの」
やはり、三郎黙ったまま.
「三郎さん、スカート買ってくれて.学校へ行けとお金をくれた.けれども私は駄目だった.たとえ三郎さんが100万円くれても同じことだった.....」
やはり三郎は言葉に困った.しばらくして発車のベルが.二人は階段を駆け上がって飛び乗る.
「一緒に行くの」
「ううん、次の駅まで.どうしてもお前が行くというのなら、俺も一緒に行こうかと思ったけど.でも、なんとなくお前のことが分る気が.....」
「私、大阪へ行って頑張るわ」
「俺も、金沢で頑張る」
「何処まで出来るか分らないけど、ともかく一生懸命にやるつもり」
「でも、無理せんでいいぞ.嫌になったらいつでも戻ってこい.俺、ちゃんとした仕事見つけて、お前の分までしっかりした人間になるから.....」

「なんとなく分る気がする」
「お前の分までしっかりした人間になる」
三郎にこう言わせれば、映画を観ている若枝のような15、6歳の女の子にも、若枝が自分の力で生きて行ける自立したしっかりした人間になるために、一人で大阪へ行く決心をしたことが分るであろう.

『風のある道』 1959年 日活 (88分)

2021年05月05日 17時02分13秒 | 邦画その他
『風のある道』 1959年 日活 (88分)

監督    西河克己
企画    高木雅行
原作    川端康成(婦人画報連載)
脚本    西河克己
      山内亮一
      矢代静一
撮影    伊佐山三郎
美術    佐谷晃能
音楽    池田正義
編集    鈴木晄
助監督   白鳥信一

出演者
竹島高秋.....大坂志郎
竹島宮子.....山根寿子
竹島恵子.....北原三枝
竹島直子.....芦川いづみ
竹島千加子....清水まゆみ
矢田光介.....小高雄二
矢田菊代.....相馬幸子
小林甚吉.....葉山良二
小林雄之助....芦田伸介
近藤先生.....信欣三
真山英夫.....岡田真澄
真山夫人.....細川ちか子
大川源三郎....富田仲次郎
茂太.......藤田安男
岡田.......小泉郁之助
岡田夫人.....堺美紀子
会場係......紀原耕



母宮子はお金のせいで、好きな男小林雄之助と一緒になれなかった.娘の直子が小林勘吉を好いていることを知った彼女は、自分が若い頃、本当に好きな相手と一緒になれなかった想いから、一度は直子と勘吉の結婚を望んだ様なのだが、けれども直子と矢田光介の肉体関係を知った彼女は、自分が肉体関係にあった相手と一緒になれなかった想いを絶ちきれなかったらしく、娘を本当に好きではない相手と知りながら、無理矢理、光介と結婚させようとしたのだった.

父親の言葉
諄いようだけど大切なことだからもう一度言うがね、
若い時に自分で自分を歪めてしまうと、年を取ってから後悔するよ.
自分の道を歩まなかった心の傷は、人を一生不幸にするものだ.

面子とか恥とか、そんなことはどうだって構わない.そんなことに振り回されて自分で自分を歪めてしまってはならないのだ.
勘吉は一人で船に乗ることが出来ず港に残っていた.未練がましく残っていたけれど、未練こそ正しい愛情なのだと思う.

さて、さて.....
母親は、肉体関係のあった男と結婚しなかったことを悔やみ続けてきた.それに対して娘の直子は、どう考えても彼女が肉体関係のあった光介と結婚しなかったことを、悔やむことは無いはずである.つまり結婚相手を決めるときに、肉体関係があるかないかは関係ないことである.
(原作はそう言う作品なのでしょう)


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『風のある道』
姉の啓子は、浮気した夫に対する仕返しに、自分も浮気をしようと考えていたが、子供が出来た彼女はそんなことはどうでも良くなっていた.彼女にとって、子供が何よりも大切であった.

『虹いくたび』 原作 川端康成
姉は自殺した若い男の子供を産む決心をした.

『山の音』 原作 川端康成
愛人の女に子供が出来たことを知った男は、子供をおろすように迫って女を階段から突き落とした.
女は『あなたの子供ではない』と言い張って、子供を守ろうとした.

『夜の女たち』 溝口健二
男に病気をうつされ捨てられた女.彼女は子供が出来たことを知ったとき、自分を捨てた男の子供を産む決心をした.

『女と男のいる舗道』 ジャン・リュック・ゴダール
パリの娼婦の実態を描いた作品.子供が出来たとき、彼女たちの多くは父親が誰だか分らなくても、子供を産むという.

川端康成原作 映画『虹いくたび』 1956年 大映

2020年11月16日 14時33分44秒 | 邦画その他
『虹いくたび』 (大映)
1956年2月19日公開 99分

監督  島耕二
製作  藤井朝太
企画  中代冨士男
原作  川端康成
脚本  八住利雄
撮影  長井信一
美術  間野重雄
音楽  大森盛太郎

出演者
京マチ子......水原百子
若尾文子......水原麻子
川上康子........若子
上原謙.......水原常男
船越英二......大谷
川崎敬三
川口浩(新人)
市川春代
三明凡太郎
高堂國典
星ひかる
滝花久子
香住佐代子
楠よし子
夏木章


更新中................

若い男
危ない遊び
不潔な人間
心の傷が痛む
自殺のなし崩し

皆が幸せになる


青木夏志
青木慶太







『大阪物語』1957年3月6日公開 96分 大映 監督 吉村公三郎

2020年06月20日 23時17分15秒 | 邦画その他
『大阪物語』
1957年3月6日公開 96分 大映

監督  吉村公三郎
製作  永田雅一
原作  溝口健二
脚本  依田義賢
撮影  杉山公平
美術  水谷浩
音楽  伊福部昭

出演
市川雷蔵
香川京子
勝新太郎
小野道子
林成年
浪花千栄子
中村鴈治郎


『金という奴、生活に入り用だけ有る分には良いが、それ以上になると人間を腐らせるだけの物なのだよ』
これは大佛次郎原作の『風船』で語られる言葉です.
『風船』原作は1955年、映画化は1956年.
当時の日本は、朝鮮戦争によって経済的に戦後復興を果し、多くの国民が、お金、お金、お金と考え出した時代であったのでしょう.多くはないにしても、お金によって豊かな暮らしを実感する人間が現れてきた時代なのは間違いないはず.

『風船』は金の力で全てを片付けてしまおうという、金に頼って生きる人間が描かれたとすれば、『大阪物語』は逆でドケチが描かれました.私の推測ですが溝口健二はエリッヒフォン・シュトロハイムの『グリード』を観ていて、かつ『風船』の影響を受けて『大阪物語』を思いついたのだと思われます.
『グリード』=『貧欲』、『大阪物語』はまさしく貧欲と言う作品で、お金を稼ぐことによって、お金を手に入れることによって不幸になって行く人間を描きました.

そして、その後の1962年、川端康成は『古都』を、大佛次郎は『花の咲く家』を書いています.決してお金によって幸せが得られるのではない.....大佛次郎と川端康成は、ほぼ同時期にそれぞれの作品を書き上げました.


あのお金でようけ人が助かりまして.
 苦労したお母はんには薬もやらんと殺してしまうおとっつあんや.
  金のためなら娘も売ろうという人や.
   金が大事か人が大事か、そんなお説教、今のおとっさんには通じんやろな.
    まあ、金が無いようになったら人間らしい人になるのやろ.
     倉が空になるまでぱーと使ってしまってやるわ.

貧乏な百姓の一家.彼らは貧乏ではあったがそれなりの収穫があって、決して食べるに困っているのでは無かったようだ.けれどもお金が無い.年貢を納めることが出来ず、お金のために妻が身売りをしなければならなかった.お金が無いことが不幸であったと言ってよい.

お金が無いことが不幸であった一家なのだが、けれどもお金を手に入れた一家はと言えば.....
お金は病気の人に薬を買うとか、人を不幸から救うために使うものであるのだが.....
父親は金の亡者になっていた.お金を稼ぐために人を不幸にする人間になっていたのだった.

もう一度書きましょう.
病気の人を救うために薬を買うにはお金が要ります.人を不幸から救うにはお金が要るのです.けれども、お金が有れば幸せかというと.....
お金のために娘を売ろうとした、お金を稼ぐために人を不幸にしようとした.お金にために人が不幸になる
.つまり、お金は人を幸せにするものとは言いきれないのである.
.....と、後に、川端康成は『古都』を、大佛次郎は『花の咲く家』を書きました.

吉村公三郎はこのように理解して映画を撮っているかどうか?.
私には、この映画は『お金は人を幸せにするために使え』、こう言っているように思えてしまうのですが.
一番難しいところを、吉村公三郎は描ききれていないと思われます.『暖流』もやはり変でした.

『花の咲く家』 (1963年 松竹 98分 大佛次郎原作)

2020年01月10日 16時28分00秒 | 邦画その他
『花の咲く家』
1963年 松竹 98分

監督  番匠義彰
製作  山内静夫
原作  大佛次郎
脚本  柳井隆雄
    石田守義
    今井金次郎
撮影  生方敏夫
美術  逆井清一郎
音楽  牧野由多可
録音  小林英男
照明  豊島良三
編集  大沢しず

出演者
佐田啓二
岡田茉莉子
岩下志麻
山村聡
笠智衆
小坂一也
冨士真奈美
渡辺文雄
環三千世
細川俊夫
高野真二
幾野道子
穂積隆信
岡村文子
浦辺粂子



一流企業の支店長の夫を持つ女.彼女は離婚を望んだのだが、離婚理由として何も落ち度がない夫は、離婚を認めようとしなかった.弁護士は多額のお金を積むしかなかろうという.女は母親の形見の貴金属類をお金に換えて、離婚の費用に充てようとしたのだった.

弁護士から甥と相手の女の事情を知った土地成金の叔父は、女を訪ねて、この金で離婚して甥と一緒になって欲しいと、多額のお金の提供を申し出た.
けれども女は、そのお金を受け取ることなく、ただ一人旅に出たのだった.

難病に苦しむ人が居たとしよう.その人は多額の医療費をかけて病気を直し健康になった.このような出来事は、一見、お金によって幸せになったように思われるのだが、けれども普通の人と同じになっただけで、幸せになれるかどうかは他の人と同様に、その人の努力によるはずだ.その人はお金によって難病という不幸から逃れたのであり、幸せになったわけではない.

同様に考えれば、別れたくても夫は別れてくれなかった、相手が嫌がっているのを知りながら結婚状態を強いる男と結婚生活を続けなければならないことは、女にとって不幸なことであったのだ.女は母親の形見の貴金属をお金に換えて、離婚費用にしようとしたが、それは不幸から逃れるためのお金であったと言える.

それに対して、叔父が提供を申し出たお金は何であろうか.それは甥の幸せを手に入れるためのお金だったのだ.幸せはお金で買うものではない.女は一人、旅立ったのだった.


『古都』 川端康成原作
双子の姉は貧乏から生みの親に捨てられたが、優しい夫婦に拾われて幸せな生活をしていた.一見、貧乏な親に捨てられて、お金持ちの夫婦に拾われたので幸せになったように思えるのだが、それは違う.優しい夫婦に拾われて、生みの親に捨てられたという不幸から救われたのであり、幸せな家庭に育ったのは、彼女を含め、家族の皆が力を合わせて掴んだ結果である.

妹の仕事は林業で、決して楽な仕事ではなく、辛い仕事と言うべきかもしれないが、けれども彼女は自分の置かれた境遇を、不幸と考えていなかったはずだ.確かに姉より遥かに貧乏な境遇であったが、だからと言ってそれが不幸と決めつけるものは何もない.
妹が自分の境遇を不幸と思っていたならば、姉の手助けは妹を不幸から救う事であったのだが、そうではなく、一緒に暮らそうと言う姉の手助けは、自分の方が裕福な生活をしていると言う比較から行われた行為であり、幸せをお金で得ようとする行為であった.


『犬の生活』 チャールズ・チャップリン
拾った野良犬が、泥棒が隠したお金を掘り出してくわえて帰ってきた.
そのお金で浮浪者の男は幸せになった.チャップリンの映画はこんな話ばかり.お金で幸せになった話ばかりである.

『街の灯』 チャールズ・チャップリン
難病に苦しむ花売り娘.彼女を救おうと、男は必至に働いてお金を溜めようとしたが上手く行かなかった.酔っ払いの男は酔いがさめると何も覚えていない.くれると約束したお金をくれなかったので、男はお金を盗んで女性に治療費として渡したのだった.
お金を盗んだが、捕まって刑務所で罪を償ったのだから何が悪いのだ.....チャップリンはこう言いたいのであろうが.

目の直った花売り娘、彼女が目の見えなかった時と同じように、街角で花を売っていたのなら、男から貰ったお金は彼女が不幸から逃れるためのお金であったのだ.
けれども、目が直った彼女は立派な店を開いていた.つまり、男から貰ったお金で、男が盗んで手に入れたお金で、幸せになった話にしてしまったと言える.
チャップリンには、幸せになることと、不幸から逃れるということが、異なることだとは理解できなかった.
彼は、自身でどう思っていたか知らないが、芸術家にはなれなかった.

『巴里祭』 ルネ・クレール
酔っ払いおじさんのせいで、花売り娘はレストランで花を売ることが出来なくなった.その花売り娘は、酔っ払いおじさんが間違ってくれたお釣りのお金で、元の花家さんに戻ることが出来た.
彼女は幸せになったわけではない、酔っ払いおじさんが彼女を不幸にしたのであり、その不幸から逃れて元に戻ったに過ぎないのだ.

この点が、『街の灯』と『巴里祭』の大きな違いである.