映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

禁じられた遊び - JEUX INTERDITS - (ルネ・クレマン)

2014年06月30日 16時29分35秒 | ルネ・クレマン
禁じられた遊び - JEUX INTERDITS - (1952年 87分 フランス)

監督  ルネ・クレマン Rene Clement
製作  ポール・ジョリ
原作  フランソワ・ボワイエ
脚本  ジャン・オーランシュ
    ピエール・ボスト
撮影  ロベール・ジュイヤール
音楽  ナルシソ・イエペス

出演
ポーレット..........ブリジット・フォッセー Brigitte Fossey
ミシェル・ドレ......ジョルジュ・プージュリイ
ミシェルの母........シュザンヌ・クールタル
ジョルジュ..........ジャック・マラン
ミシェルの父........リュシアン・ユベール
ベルト..............ロランス・バディ
フランシス..........アメディー
司祭................ルイ・サンテヴェ
レイモン............ピペール・メロヴィ




両親を亡くした幼い少女、その少女が両親の死を理解するまでの姿を通して、人間のエゴを、少し言い換えれば、ミシェルとボーレット、二人の子供の純真な心と対比させ、大人のエゴを描いた映画と言ってよいでしょう.

1.冒頭に描かれる戦争のシーン、戦争は人間のエゴによるもの
2.避難民が先を争い、故障した車を落とす
3.荷車の夫婦、夫を急かす、荷車の上の妻
4.仲の悪い、隣り合った二軒の農家
5.互いに家同士が仲が悪いからと言って、好き合った男女を引き裂こうとする
6.「順序が逆だと言われた」懴悔に行きながら、この会話を交す男女
7.霊柩車の十字架を盗んだ懴悔の後、祭壇の十字架を盗もうとしたミシェルはおまけ
8.ミシェルを騙し、十字架のありかを聞き出した後、ボーレットを警察に引き渡した両親、
ざっと上ただけで、八つほど.

主人公の少女があまりにも幼すぎる、その演技をどう理解して良いか、迷いましたが、けれども、ルネ・クレマンは、人が人の死を、子供が親の死をどの様に受け取るのか、きちんと捉えた上で、映画を描いているのは間違いないようです.
大人でも近親者の死、それをきちんと受け止めるのは難しいもの、例えばお酒を飲んで、和らげながら受け止めるものなのですが.
さて、子供の場合は.それは、この映画に描かれたとおり、最初は全く理解できない、理解しようとしないものであり、どうするかというと、身近な他の悲しみに置き換える、まず愛犬の死に置き換えました.それを契機に、お祈りを覚え、様々な動物のお墓を作る遊びに夢中になりました.それらは、子供の心の中で、両親の死が置き変わったものであり、やがて、理解することの出来ない悲しみの上に、幼いながらも愛情、友情が覆い被さって行くことになりました.

そして、ラストシーン.
「ミシェル、ミシェル」
「ママ、ママ」
「ミシェル、ミシェル・・・・・」
これは、描かれたとおりに受け取るべきだと思います.幼い子供同士であろうとも、男女の仲を引き裂くこと、そこにある悲しみ、苦しみは、人の死、両親の死による悲しみ、苦しみと同じものであり、ミシェルとの別れによって、ボーレットは両親の死を理解することになりました.
戦争による死の悲しみも、男女の仲を引き裂く事による悲しみも、同じもの.
戦争は、家族を、あるいは好き合った恋人同士を引き裂く、家同士のエゴで、好き合った男女を引き裂くのも、それは当然、同じことである.
両親を亡くした幼い少女が、その悲しみをどのように理解するのか、その姿を通して、人の死と言うものを考えさせる.と同時に、死の逆、生きるということがどう言うことか、極めて客観的に言うことができる幸せ、好き合った男女が一緒に暮らすことの大切さを、合せて考える事によって、人と人とが殺し合う行為、戦争とはどのような事かを、考えさせる映画としておきましょう.


ミシェルが爆撃の真似をして、ゴキブリを殺すシーン.

「バルルル、バーン」ゴキブリを追い回すように、ゴキブリの上で鉛筆を回す.
「バーン」ゴキブリを鉛筆で突き殺す.
「殺さないで」ボーレットが叫ぶ.
「爆弾が落ちた」

戦争の遊びは、その被害者の悲惨な感情を、より悲惨な形で呼び起こさせるものだと思いますが、それはさておき、ゴキブリを殺したミシェルは、ゴキブリを殺してはいけないとは考えていませんでした.そして、戦争が人間を(生き物を)殺す行為であるとも、考えることなく、戦争の真似、爆撃を真似てゴキブリを殺してしまいました.

第二次世界大戦開戦時の日本国民の心は、神国日本は絶対に負けることはない、であり、自分達が負けることを考えることは全く無く、相手はゴキブリと大差のない米英の鬼畜生と思い込みました.
遊びで戦争を行ってはならないのは当然のはずなのですが、日本国民の多くは、ミシェルが遊びでゴキブリ殺したのと大差のない考え方で、戦争を真剣に考えることなく戦争を行ったと言えます.
































『さすらいの二人』 - IL REPORTER - (ミケランジェロ・アントニオーニ)

2014年06月29日 13時06分34秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
さすらいの二人 - IL REPORTER -
1974年 124分 イタリア/フランス/スペイン

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni
製作  カルロ・ポンティ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    マーク・ペプロー
    ペーター・ワレン
撮影  ルチアーノ・トヴォリ
音楽  イヴァン・ヴァンドール

出演
    ジャック・ニコルソン
    マリア・シュナイダー
    イアン・ヘンドリー
    ジェニー・ラナカー


取材に同行した妻
大統領に取材後、車の中での会話
「不満なんだろ?」
「ええ、事実を知りながら、白々しい会話ね.大統領に言えば?」
「嘘つきと?」
「ええ」
「分ってても規制がある」
「守る必要ないわ」
「じゃ、なぜ来た?」

妻の言うように、相手が嘘を言っているのが分っていながら聞いているのは、報道記者としてあるまじき行為に思えたけれど、けれども、嘘つきと批判しても、そこから真実が見つかるわけでもなさそうに思える.
ロックは、大統領が嘘を言っているのが分っていたので、その嘘を暴くために、反政府組織のゲリラを取材することにした.それが映画の始まりであり、彼は必死にゲリラの姿を追い求めたのだけれど、
「ゲリラは何人いる?」「行けば分る」
「どんな武器がある?」「行けば分る」
やっとたどり着いた案内役の男の言葉を信じて、岩山を4、5時間歩いた結果は、山の上の岩陰から数人のゲリラの姿を眺めるだけで、取材することは出来なかった.

帰り道、車は砂漠に埋まって動かなくなる.何もかもうまく行かない.ふらふらになって歩いてホテルに帰り着き、シャワーを浴びようと思っても石鹸もなかった.
ホテルの隣の部屋の男が死んでいた.自分と容姿が良くにている.何もかも嫌になったロックは、自分の全ての過去を捨て、死んだ男と入れ替わることにしたのだが、それは死んだ男の現在を引き継ぐことでもあった.そして、その男は皮肉にも自分が報道記者として追い求めていた、反政府ゲリラに武器を売り渡していた人物であったため、結局彼は、自分の過去を捨て去ることは、出来なかったようだ.

夫の死に疑問を抱いた妻と、彼の仕事の依頼人であるテレビ局のディレクターは、彼を必死に追跡してきた.同時に、武器密売人に成り代わった彼を抹殺しようと、政府が差し向けた暗殺者も追ってきた.彼は、捨て去ろうとした過去からも、現在からも追われていたのか?

建築を学ぶ女の子
河原にて
「なぜ付いてくる?」と、つっけんどんに言われた、彼女は腹を立てたのでしょう、
「諦めるのは嫌い、頑張って」と言い残し、すたすた歩いて行く.
「何をだ?」と聞いた、ロックだったのだが.

ホテルのレストランにて
妻が遺品を受け取りに行った時、自分がテレビ局を通じてロバートソンを捜していることを話してしまったため、政府の差し向けた暗殺者は妻の後を追うようにして、ロックを追ってくることになった.
レストランで食事をしていると警察がやってきた.白い車を捜しているという.「捜しているのは車か、乗っている者か?」、半ば強引に女の子が警察へ出向いた.
「ロバートソンを捜しているわ.レーチェル・ロックと言う女性が.彼の身が危険ですって」
「どんな危険だ?」
反政府組織の人間は、「政府の妨害により身に危険が及ぶおそれがある.その時は手助けをする」と言っていたのだけど、ロックには理解できなかったのだろうか?.
そして、アルメリアのホテルで、ロックは妻と鉢合わせをする.電話をしていた妻も逃げ出すロックに気がついて、警察に頼んでロックを追ってくるのだが、ロックは必死に逃げ回るだけだった.
妻は自分が死んだと思っているはずなので、顔を合わせたくないのは分るが、自分から頼んで助けてもらった女の子に対して、一人で去って行こうとした時、追いかけて引き留めた女の子に対して、なぜ彼は、追ってくるのは妻だと話すことが出来なかったのか?.

車が故障して、バス停にて
「聞いて、逃げ回るのは良くないわ.待ち合わせに行って」
「ほかの場所と同じだ、誰も来ない」
「ロバートソンは何かを信じて、会う約束をしたのよ.あなたはそれを捜している」
「彼は死んだ」
「あなたは生きている.二人で行くのよ」

結局は三日後に待ち合わせて、海の向こうで落ち合うことにした二人だったが、彼女は反政府組織の者との待ち合わせのホテルで、ロックを待っていた.
「(窓の外に)何が見える」
「少年とおばあさん、どっちに行くかもめてるわ」
「来るなんて」
彼はベットに寝そべり、窓の外を眺める女の子に聞く.
「今度は何が見える?」
「男が肩を掻いてるわ」
「子供が石と砂を投げてるわ」
見たままを、ありのままに答える彼女.

やがて、約束通り一人で先に行くように言われ、彼女はどうしようか迷いながらも部屋を出る.そして入れ替わるようにやってきた暗殺者に、彼は殺された.

警察と妻も、すぐにやってきた.
「ロバートソン氏は?」
「部屋にいます」
「案内しろ」
「奥さんが隣の部屋に」

「知ってる人か?」と聞かれ、妻は幾年も連れ添ってきた相手のはずなのに、「知らない」と答えた.それに対して、旅の偶然の出会いに過ぎない女の子は「知っている」と答えた.

本当の妻は、妻であることを隠し、知らない人ですと、嘘の答えをした.
偽物の妻、嘘の妻の女の子は、知ってる人ですと、本当のことを答えた.

夫は、死んだ武器密売人の男に成り済ましていた.そして、政府の派遣した暗殺者に殺された.この時、妻には、全てが明瞭に分っていたはずである.妻が本当のことを言いさえすれば、全てが明かになったのだが.

女の子は、後からロックがやって来るはずのホテルで、自分が妻である言って部屋を取り待っていた.女の子が妻だと嘘を言わず、単に知り合いの男が来ると言って部屋をとっていたならば、どうであっただろうか?.
女の子が妻だと言ったので、本当の妻は、知らない人だと言ったのではないのか?.

妻は、テレビ局のディレクターが、夫の追悼番組をやると言ったときは、興味が無いというよりは、並の記者よと夫を軽蔑していて、そんな番組は見たくもない、なぜやるのといった雰囲気だった.突然の出来事なので、初めはなんとなく夫の死に疑問を抱いたに過ぎなかったけれど、けれども、遺品を受け取りに大使館に出掛けたりしている内に、疑問は次第に深まっていったのであろう.自らテレビ局に出掛けて、夫が残したフィルムを見るようになっていた.訳の分らない祈祷師のインタビュー、ショッキングな銃殺のシーン、それらを見ている内に、記者としての夫への彼女の評価は変化していっていたのかもしれない.
妻は、初めはなんとなく夫の死に疑問を抱いたに過ぎなかったが、遺品のテープに残された二人の男の会話を聞きながら、写真の張り替えられたパスポートを見て、夫が生きているのではないかと、かなりの確信を持って追ってきたのであろう.危険を知らせるために必死に追ってきたはずであり、真実を伝えるために追ってきたと言ってもよいはずである.けれども死んでいる夫を見たときには、一度は死んだと思った人間が、本当に死んでいたに過ぎなかったのだろうか?.
妻は浮気相手と一緒になりたかったから、夫が居なくなってくれた方が都合がよかったことでもあり、自分が妻だという女の子がそこにいるのに、今更、自分が妻だと言って、言い争うような気にはなれなかったであろう.

嘘が嘘を呼び、何も分からなくなってしまった.女の子にしてみればロックのことを思うが故の、他愛のない嘘に過ぎなかったのだが、彼女がそんな嘘をつくことになったのは、ロックが事実をありのままに彼女に話さなかったためである.追ってくるのが妻だとロックが話していれば、女の子は逃げずに妻に会うように勧めたはずであり、こんなことにはならなかったと言える.

別れたいと思っていた妻には全てが分り、妻になってもよい、あるいは妻になりたいと思っていたのであろう、女の子にはなにも分からない結果になってしまった.
真実を追い求めるには、単に、事実をありのままに伝えること、それが一番大切である.

「何をするにしても、自分は自分だ」
「何をするかに依るわ」
それなりに才能を持った人間には、自分にふさわしい生き方がある.
「頑張ってね」と、女の子は言った.
そして、「二人で行くのよ」と、探し求める相手に一緒に会いに行こうと言った.
彼女は、彼を理解する、理解しようとする、若くて可愛らしい女の子だったのだけど.

誰でも他人のことだと真実を知りたがるのに、自分のこととなると真実を話そうとしない.自分にとって都合の悪いことは誤魔化そうとする.ロックもやはりそう.記者として真実を追い求める仕事をしていたけれど、助けてもらった女の子に真実を話したとは言えない.良心の呵責からか、旅行の行き先を変更して、死んだ男が約束していたバルセロナへと、やってきた彼ではあったのだが、誤解されて、武器密売に関わる大金を受け取ったことは話さなかった.追ってくるのが妻だと知ってからも、話そうとはしなかった.
話しもしたくない妻と、離婚だのなんのと煩わしい話をしなくても別れられる、そう思って、他人に成り代わった彼であったろうが、自分が逃れようとした煩わしさに追い回されることになってしまった.女の子が言ったように、逃げ回るのはよくない、逃げようとしなければこんなことにはならなかったはずである.

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祈祷師
「昨日聞いた話によると、あなたは祈祷師として育てられたとか
  フランスやユーゴで数年過ごした経歴は、祈祷師として異例だ
   部族習慣への考え方が、変わりましたか?
    土着の風俗習慣は、弊害だと思いませんか?」
「ロックさん、君が満足する答えを言うことは出来るが、
  君は理解できず、答えから学びもしない
   君の質問は、君自身をよく表わしている
    私の答えが、私自身を表わす以上に」
「素直に聞いただけです」
「我々が語り合えるとすれば、君が素直な心で物事を考え
  私が、その誠意を信じる時だけだ」
「その通りですが」

少し言い換えてみると、
『祈祷師というものは、土着の風俗習慣に根差したものであり、文明社会とは相容れない.文明社会で暮したことのあるあなたは、その事をどう考えるのか?』
もっと端的に言って、
『祈祷師などというものは、文明社会から見れば嘘つきに過ぎない.文明社会で暮したことがあるあなたには、よく分っていることと思うが、どうなのか?』
『お前は俺に対して嘘つきというのだから、俺が何を話してもお前は信じないはず.話して無駄だ』

聞いた方が聞いた方なら、答えた方も答えた方、どっちもどっち.それはそれとして、この祈祷師、都合の悪いことを聞かれたので、自分が答えない理由を相手のせいにして、何も答えなかったに過ぎないのではないか.お前が素直じゃないから、俺も素直になれない、と言うのなら、相手の素直な心を引き出すには、先に自分が素直になるべきであるはず.
















『夜』 - LA NOTTE - (ミケランジェロ・アントニオーニ)

2014年06月08日 02時19分24秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『夜』 - LA NOTTE - (1961年 122分 イタリア/フランス)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    エンニオ・フライアーノ
    トニーノ・グエッラ
撮影  ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ

出演  ジャンヌ・モロー
    マルチェロ・マストロヤンニ
    モニカ・ヴィッティ
    ベルンハルト・ヴィッキ


喧騒と静寂(孤独)、近代建築と古い建物(廃墟)

現在でも相当な高層建築、当時ならば目を見張るような高層建築の、上層階から下りてくるエレベータから、おそらくこれから建設が始まるであろう空き地、建設中のビル、そうした変化して行く街並みを映しながら映画は始まる.

開発(都市開発)
病院に着いた車の目の前に、パワーショベルが投げ出されるように倒れてきた.
開発とは、破壊なのか?、創造なのか?

病院
残された命がどれほどもないことを知った病気の人は、孤独なはず.孤独から逃れるために、誰でも良い、側に居てくれることを望むのではないでしょうか.それは、評論家の男も、隣の病室の女も同じであったと思われる.
若い頃から評論家の男は、作家の妻になった女が好きで、その事は、妻も夫も気がついていたことのようだ.彼は二人が結婚してからも、新婚家庭の甘い夜を邪魔したことを詫びていた.
好きな相手なら、なおさら側に居て欲しかったであろうけれど.その気持ちを知ればなおさらに、末期の病人を前にして、一緒にいても、気休めの言葉、嘘の言葉を並べるしかない、その辛さに耐えかねて、女は一人病室を出て、病院の建物の外で泣いていた.

出版記念のパーティ
「次作の予定は?」
「未だ何も」
「若者は、せっかちだ」
あの若い女性は、出版されたばかりの本を読み終えたかどうか?、なのに、次の作品について知りたがった.
そして、少し付け加えれば、若者は刺激的な内容、奇抜な内容、つまりは今までにない新しい内容を期待するのではないでしょうか?

若者たち
喧嘩をしている者達.必死になって殴り合っていたけど、「止めて」と止めたら、喧嘩かを止めて、そして、今度は女を追いかけてきた.
なぜ喧嘩をしていたのか、理由は分からない.そして、なぜ女を追いかけてきたのかも解らないけれど、若者とは、理由もなく何かに夢中になる.

おもちゃのロケットを打ち上げているのを、多くの者達が見物していた.
「月に行きたい?」
「別に」
夢中にはなっていたけれど、そこに夢、希望があるわけではないらしい.振り返れば、夢中になって喧嘩をしている者達にも、喧嘩をする行為に夢、希望があったとは言い難い.

古い建物、廃墟、空き地
「昔のままだな」
「今に変わるわよ」
「昔、ここを電車が...」
今は、街角にぽつんと一軒、小さなカフェがあるだけ.
けれども、残っている廃墟の建物を見ると、結構洒落た建物が並んでいる.往時はきっと賑やかな街だったのでしょう.

「迎えに来て」と言う電話を、カフェのおばさんは、仕事をしながら聞いていたらしい.
「会うならホテルにすれば?」
その辺は、空き地か廃墟の建物ばかり.男女の一時の欲望を満たすならば、ホテルに行くのが、難しい話し、回りくどい話をする必要も無く、手っ取り早い.
(「なぜここに来た?」「別に」、こんな話を、する必要はない.)

女=妻
妻は出版記念の会場を抜け出して、一人街をさまよい歩いた.彼女は、(どちらかと言えば)孤独を好む女性のようだ.
近代的な建物の側に、半分崩れ落ちた古い建物が残っていた.廃墟かと思ったら、洗濯物が乾してあることから人が住んでいて、おそらく住人であろう、少女が一人、泣いていた.捨てられ、止まったままの時計は、そこだけが取り残されて止まったままの空間を思わせる.
街角でパンにかぶりつく郵便配達、あるいは、家の中で読み物をしていた人は、自ら孤独を望んだであろう、自分を観られて迷惑そうにした.それに対して、泣いていた少女、あるいは、ヨーグルトを無心に食べていた老婆は、自ら望んだ孤独ではなく、他から与えられた孤独と言って良いのか、アヤされても、目の前を通られても、無関心だった.


家に帰っても、先に帰ったはずの妻が未だ帰っていなかった.家の中を探し回り、隣の家にも声をかけて探し、更にはベランダに出て妻が早く帰ってこないか、待ちわびる様子だった.
このような素振りから、彼は妻を愛しているように思えたのだが、けれども、入浴中の裸の妻に接するときの愛想のない様子を観ると、そうも言えないような感じ.彼は寂しがりや、つまり孤独が嫌いな男にすぎず、妻と一緒にいたいのに一緒にいても退屈していて、内心は、新しい刺激を求めている男なのが、後になって解ることになる.

ナイトクラブ
夫は興味を持って観ている素振りでいたが、後の妻の言葉によれば、『仕草も表情もわざとらしい』セクシーダンスを、夫も退屈して観ていたらしい.

富豪のパーティ
富豪の娘は、孤独が好きな女のようだ.難しい本を一人で読んでいたり、一人でゲームに夢中になっていたり.そうした孤独を邪魔するように、夫は彼女に言い寄っていった.最後には『スランプから抜け出すには君が必要だ』、とまで言ったのだけど、どこまでが本当のことなのやら、ただの口説き文句に過ぎなかったのではないか?.
富豪の娘と夫がキスをしているのを目撃した妻.それでも彼女は孤独に耐えようとしたのだが、夫は、テラスに自分を一人残して、富豪の娘のお尻を追いかけていってしまった.
やがて妻も、それまでは、あたかも孤独を好むかのごとく、男を避け続けていた彼女だったけれど、一時の欲望を満たすために、あるいは新しい刺激を求めたのか、男の誘いに乗って、降りしきる雨の中を車で一緒に出掛て行った.けれども、ふと我に返って思いとどまった.

富豪の娘と妻は、夫を、一人の男を巡って喧嘩になりかけたけれど、仲良くなりました.二人とも孤独を好きというよりも、孤独を理解する女であったので、互いの心を理解することができたと言ってよいのでしょうか.

夜を徹してのパーティ、刺激的だった夜が明けて、二人は帰ることにした.
庭を抜け、ゴルフ場へ歩く二人.
妻は別れ話を始めるが、別れるのは嫌だという.
妻がラブレターを読み始めた.若い女心を魅了する、刺激的な文章だった.夫は「誰の手紙だ?」と聞いた.作家のくせに、自分の書いたラブレターを覚えていない男だった.
彼女は、若い頃、夫の上辺だけの言葉を信じ込んで結婚してしまった.今でも、夫は自分と一緒にいたがるけれど、けれども、一緒にいても退屈ばかりしている.そして、事あれば、新しい刺激を求めたがり、若い魅力的な女性を見つければ、すぐに夢中になって口説き始める、そんな男に過ぎなかった.
その事をはっきりと理解した妻は、夫に『別れよう、あなたは私を愛していない』と言うのだが、けれども夫は『愛している、愛している』と言って、妻に抱きつき、離れようとしない.この二人、この後、別れたのかどうなのか?

富豪の言葉
『私にとって事業は芸術だ.大事なのはお金ではなく、後世に何かを残すことだ』
『未来のことなど分らんよ、一応の抱負はあるが今のことだけで手一杯だ」
「未来は不透明だ、今や事業家とて仕事に自身が持てん」
『はるか昔、若い頃は、バラ色の夢見て働いたものだ』
そして彼は、
『社の活性化には、労使間の意志疎通が欠かせない.今の社員は、社の沿革はもとより創始者の私のことも知らん』
『出版部や広報部を創設して、社員を啓蒙しようと.そこで思いついたのが社史の発行だ』

断片的な言葉なのですが、なんとなく分るはず.後世=未来に何かを残そうと思うならば、社の沿革=歴史を知らなければならない.
富岡製糸工場を残し、保存してきた方達は、工場の歴史を学んだからのはず.
決して新しい綺麗な街を作ること、都市の再開発を否定するものではありません.けれども、古いものを壊そうとするとき、その歴史を学んでからでも遅くはないはずであり、また、新しいものを作ろうとするとき、古いものの歴史を学んでからでも遅くはないはず.
ことさら許されないのは、自分の書いたラブレターを憶えていなかった作家のように、一時の欲望を満たすため、刺激を求めるために、新しいものを求めること.すぐに飽きるのは当然である.
彼は、寂しがり屋で、孤独を嫌う人間だったけれど、皆で議論を戦わせるだけでなく、自分一人(孤独)になって、冷静な気持ちで判断することも必要なはずである.
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新しい国立競技場
デザイン決定に関わった委員の人達の中に、後日迷いが出てきた人がいるらしい.奇抜なデザインに引かれ選んだのだけど、幾日かたって冷静になって考えてみると、なんとも頂けないデザインに思えてきたのではないのか?

収容人員8万人程の、世界最大の競技場らしいけれど、世界一を望むのは一時の欲望に過ぎないのではないのか.
めったにそんな人数の観客を集めることは出来ない.そのため、若者向けのコンサートを行えるように、屋根を付けたりと考えているらしいけれど、若者向けにそんな設備を作る必要があるのかどうか?.
大きな施設を作れば維持費もかかる.多くの人が直接自分の目で見て競技を楽しめるようにと言ってみても、楽しく競技を観戦できる施設の大きさは限られているはず.離れた席から観戦するより、テレビで観ていた方が楽しいのではないのか.
(お金と相談も、当然必要)

同じ建築家の設計した大規模商業施設が韓国にあり、周りと調和しない景観が問題になっているらしいけれど、なぜ選ぶ前に観に行かなかったのか疑問でなりません.選んだ人達は、映画に描かれた夫婦のように、一時の感情により、刺激的なデザインに引かれただけにしか思われないのですが、どうなのでしょう.男と女の問題ならば、別れれば解決できるけれど、建物の場合はそうは行かない.気に入らなくて嫌だ嫌だと言ったにしても、あるいは皆が新たな刺激を求めて他所へ移って行ってしまっても、建物の維持費は、いつまでも払い続けなければなりません.


https://www.youtube.com/watch?v=vrT-slcjaLk


ドイツ零年 (ロベルト・ロッセリーニ 1948年 75分 イタリア)

2014年06月05日 07時28分05秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『ドイツ零年』 (1948年 75分 イタリア)
監督  ロベルト・ロッセリーニ
製作  ロベルト・ロッセリーニ
脚本  ロベルト・ロッセリーニ
    カルロ・リッツァーニ
    マックス・コルペ
撮影  ロベール・ジュイヤール
音楽  レンツォ・ロッセリーニ

出演  エドムント・メシュケ
    エルンスト・ピットシャウ
    バーバラ・ヒンツ


子供の人権擁護
廃虚と化したベルリンの街、貧困にあえぎ、ぎりぎりの生活を強いられ、意欲も信仰も失った市民.廃墟は街並みだけではない、そこに住む市民の心も廃墟と言ってよく、戦後二年のベルリン、絶望と、戦争の傷跡から逃れることのできないすさんだ心が、一人の少年の心をむしばんで行く.

皆貧困にあえいでいることを知りながら、職泥棒と子供を追い払おうとする大人たち.
借家人を追い払おうとする家主.軍人だったことを知れるのを恐れ隠れ住むエドムントの兄.
ナチの残党を想わせる得体の知れない一味、その配下の教師、更にその配下の孤児を含む窃盗団.
自身に希望を見出すことのできない病身の父親.そして、米兵から貰うタバコを売る、そのわずかな収入を頼りに、希望を捨てずにフィアンセの帰りを待ち続ける姉ではあるけれど、夜毎出かける姉の姿は、誤解であったにしても、やはりエドムントの心を歪めて行ってしまったのでしょう.

ロッセリーニは戦争終結間際、無防備都市ではイタリア人民の団結を、そして戦火のかなたにおいては、アメリカ(外国)を頼りにしないことを訴えました.団結して自分達の力で国家を再建することの大切さを訴えたのです.
そして、前二作に続くこの映画では、描かれた通り、ロッセリーニの言葉にあるとおり、子供の人権についての認識を高めること、つまりは、戦争が終わっても未だに戦争の傷跡を引きずり続ける現実から、子供の心を守ること、明日をになう子供を育てること、子供の心の擁護が何よりも大切と考えたのだと想います.

ドイツに対する非難でも擁護でもない.それは当然なこと.イタリアにおいても現実はドイツとたいして違いはしない.が、自分自身のことは分かりにくい、からこそ、イタリアよりも悲惨な惨状のベルリンを舞台に描き、観せる事によって、子供の心を戦争の傷跡から引き離す必要性を説いたのでしょう.

独りぼっちになったエドムント、教師からも追い払われ、窃盗団からも追い払われ、そして、子供たちのボール遊びに加わろうとしたけれど、子供たちからも嫌われた.12,3の子供に戻ろうとしてもできなかったのです.なぜ、この様なことに、そう考えるとき、その要因は全て、戦争の傷跡を引きずっているためなのです.

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子供の人権擁護を訴える映画では、ヴィットリオ・デ・シーカが1946年に『靴みがき』を撮っていますが、現実は子供の人権擁護には程遠く、ロッセリーニもこの映画を撮ることにしたのだと思われます.

日本では、やはり1948年に、清水宏が『蜂の巣の子供たち』を撮っています.
戦後の闇屋、売春とぽん引き、そうした歪んだ大人の世界を、子供の視点から正す、独特な作品に描き上げました.































無防備都市 (ロベルト・ロッセリーニ 1945年 116分 イタリア)

2014年06月05日 07時04分57秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『無防備都市』
監督  ロベルト・ロッセリーニ
原作  セルジオ・アミディ
脚本  セルジオ・アミディ
    フェデリコ・フェリーニ
撮影  ウバルド・アラータ
音楽  レンツォ・ロッセリーニ


出演  アルド・ファブリッツィ
    アンナ・マニャーニ
    マルチェロ・パリエーロ
    マリア・ミキ


イタリアにおける第二次世界大戦は、レジスタンスがムッソリーニ政権を倒したのだが、その後ドイツに占領され、イタリア軍はドイツ軍の支配下に置かれて、イタリア市民に銃を向けることになった.

もうすぐ戦争は終わるであろう.やっとそうした希望が見え始めたのだが、
1.市民に銃を向けたイタリア兵
2.拷問に耐えられず、口を割ってしまった人達
3.ファシスト(戦火のかなたで描かれる)
けれども、イタリア人同士が啀み合い、憎しみあう問題が.....



パン屋の襲撃シーン.
略奪行為はどの様な理由をつけても、良いわけがありません.けれどもそうしなければ、飢えて生きて行けない.悪いことだと分かっていながらやらなければならない、その戦争の、どこを探しても正義は存在しない. 戦争を続ける限り、正義は存在しない.つまり、戦争を終わらせることが正しい正義のはず.






子供のテロ行為.
一見それが正しい行為に見える.けれども少し考えてみれば、良い事か悪いことか.やはりどの様な理由があろうとも、人殺しをしてはならない.子供までこの様なことをしてしまう、戦争には正しい勇気なんて存在しない. 戦争を続ける限り、勇気は存在しない.つまり、戦争を終わらせることが正しい勇気のはず.





子供に正しい判断を求めても無理


アリナ.
麻薬とレスビアン、衣服が欲しかった、裕福な生活がしたくて、結局、恋人のマンフレディをナチスに売ってしまったが、この女の描かれ方は憎むに値しない単に愚かな女、と思える.
ドイツの将校が、「俺たちは憎まれものだ」、と自己批判を始めるけど、同じ部屋にアリナが居合わせる.確かにアリナは許されないものを残すが、それでも憎むな、ドイツ将校の自己批判は、悪いのは俺たちだ、イタリア人の側から言い換えれば、憎むべきはドイツなのだ、と言っているのでしょうか?.







ドイツ軍に媚を売って暮らしていた女達


脱走兵.
この人はイタリアの正規軍なのでしょう.ドイツ軍の支配下でイタリア人民と戦っていた.自分の間違いに気づいて脱走したのだけど、脱走兵の汚名はいつまでも付きまとわれる.それでも彼は自分の正しいと思う道を選び脱走した.この意味で、勇気のある人間であったはずだ.
彼は、拷問を恐れ自殺してしま.、その姿をいかにも臆病に描いているけど、本当に臆病な人なのかどうか?.



彼は自ら死を選ぶことにより、秘密を守り通した


マンフレディの拷問のシーン.
この拷問の苦しみを、本当に理解したのは誰かと言えば脱走兵であり、拷問が死ぬより苦しいことであり、自分には到底耐えきれない、そう思ったから自殺してしまったと言ってよいはず.そして、彼は自分の知っている秘密をきちんと守り通したのであり、一見ひ弱な人間に見える描き方なのだけど、実はそうではない、拷問に絶え抜いて死んだマンフレディと変わらない、強い人間と言えそうです.
マンフレディの拷問は、死ぬより辛いこと、理解できない苦しみ、二度と繰り返されてはならない悲劇であるのは言うまでもないことですが、同時に、拷問にあって口を割ってしまった者達を、裏切り者と言い捨てるのは簡単なのだけれど、裏切り者として責めることが出来ることなのかどうなのか?.









神父の銃殺.
「死ぬのは難しくない」「生きるのが難しい」、よろめきながら護送車から降ろされる神父は、付き添いの牧師にこう言う.一斉に銃を構えた兵は、皆、故意にねらいを外したが、結局はドイツの将校に撃ち殺される.
「死ぬのは難しくない、生きるのが難しい」、少し言い換えると、殺すのは簡単だ、だけど生かすのは難しい.もう少し言い換えれば、生かすのは難しいけど、殺すのは簡単だ.神父の銃殺のシーンは、神父の言葉通りに描かれている.






ローマの解放と共に撮影が開始された.まだイタリア北部では戦闘が続いているが、やがてこの戦争も終わるだろう.けれども、殺しあいを始めるのは簡単、戦争を始めるのは簡単だけれど、終わらせるのは難しい.

この映画を観ていて、ドイツ人とイタリア人がはっきり区別できなくて.最後に神父を銃殺する兵士はイタリア兵だと思うのだけど、皆がねらいを外した.神父の最後の言葉は、「神よ、彼らを赦し給え」.
イタリア人同士が、敵味方に別れてイタリアの国土の上で戦った.結果、多くの悲しみと憎しみを生んだのだが、誰もが、決してこの戦争を望んだのではない.憎しみを捨てて、団結して平和な国を築いて欲しい.(生きるのが難しい.殺し合った者同士が憎しみを捨てるのは難しい事なのだけれど)


特攻警察と大政翼賛会と国防婦人会と.....日本全国天皇経
日本にはレジスタンスが居なかった分、イタリアより惨め

「爆弾は何処に落ちるか分りません.逃げなさい」と、アメリカ軍がビラを撒いたので、市民は山へ逃げた.けれども市役所は、「戻ってこないと配給をやらないぞ」と市民を呼び戻して、爆撃で殺したのだった.日本の市役所は、ファシストよりもっと悪い奴の巣窟だった.

こいつらは皆イタリア人である.

日本兵も中国人その他、行く先々で現地人を強姦しまくったのだが

残念ながら若干のオランダ人女性を除いて、金髪女性を強姦するには至らなかった.....








馬鹿げた死

すぐに護送車を襲撃して救出された.

「母さんのマフラーを」、子供との別れの会話の時間によって、逮捕を逃れた.