禁じられた遊び - JEUX INTERDITS - (1952年 87分 フランス)
監督 ルネ・クレマン Rene Clement
製作 ポール・ジョリ
原作 フランソワ・ボワイエ
脚本 ジャン・オーランシュ
ピエール・ボスト
撮影 ロベール・ジュイヤール
音楽 ナルシソ・イエペス
出演
ポーレット..........ブリジット・フォッセー Brigitte Fossey
ミシェル・ドレ......ジョルジュ・プージュリイ
ミシェルの母........シュザンヌ・クールタル
ジョルジュ..........ジャック・マラン
ミシェルの父........リュシアン・ユベール
ベルト..............ロランス・バディ
フランシス..........アメディー
司祭................ルイ・サンテヴェ
レイモン............ピペール・メロヴィ
両親を亡くした幼い少女、その少女が両親の死を理解するまでの姿を通して、人間のエゴを、少し言い換えれば、ミシェルとボーレット、二人の子供の純真な心と対比させ、大人のエゴを描いた映画と言ってよいでしょう.
1.冒頭に描かれる戦争のシーン、戦争は人間のエゴによるもの
2.避難民が先を争い、故障した車を落とす
3.荷車の夫婦、夫を急かす、荷車の上の妻
4.仲の悪い、隣り合った二軒の農家
5.互いに家同士が仲が悪いからと言って、好き合った男女を引き裂こうとする
6.「順序が逆だと言われた」懴悔に行きながら、この会話を交す男女
7.霊柩車の十字架を盗んだ懴悔の後、祭壇の十字架を盗もうとしたミシェルはおまけ
8.ミシェルを騙し、十字架のありかを聞き出した後、ボーレットを警察に引き渡した両親、
ざっと上ただけで、八つほど.
主人公の少女があまりにも幼すぎる、その演技をどう理解して良いか、迷いましたが、けれども、ルネ・クレマンは、人が人の死を、子供が親の死をどの様に受け取るのか、きちんと捉えた上で、映画を描いているのは間違いないようです.
大人でも近親者の死、それをきちんと受け止めるのは難しいもの、例えばお酒を飲んで、和らげながら受け止めるものなのですが.
さて、子供の場合は.それは、この映画に描かれたとおり、最初は全く理解できない、理解しようとしないものであり、どうするかというと、身近な他の悲しみに置き換える、まず愛犬の死に置き換えました.それを契機に、お祈りを覚え、様々な動物のお墓を作る遊びに夢中になりました.それらは、子供の心の中で、両親の死が置き変わったものであり、やがて、理解することの出来ない悲しみの上に、幼いながらも愛情、友情が覆い被さって行くことになりました.
そして、ラストシーン.
「ミシェル、ミシェル」
「ママ、ママ」
「ミシェル、ミシェル・・・・・」
これは、描かれたとおりに受け取るべきだと思います.幼い子供同士であろうとも、男女の仲を引き裂くこと、そこにある悲しみ、苦しみは、人の死、両親の死による悲しみ、苦しみと同じものであり、ミシェルとの別れによって、ボーレットは両親の死を理解することになりました.
戦争による死の悲しみも、男女の仲を引き裂く事による悲しみも、同じもの.
戦争は、家族を、あるいは好き合った恋人同士を引き裂く、家同士のエゴで、好き合った男女を引き裂くのも、それは当然、同じことである.
両親を亡くした幼い少女が、その悲しみをどのように理解するのか、その姿を通して、人の死と言うものを考えさせる.と同時に、死の逆、生きるということがどう言うことか、極めて客観的に言うことができる幸せ、好き合った男女が一緒に暮らすことの大切さを、合せて考える事によって、人と人とが殺し合う行為、戦争とはどのような事かを、考えさせる映画としておきましょう.
ミシェルが爆撃の真似をして、ゴキブリを殺すシーン.
「バルルル、バーン」ゴキブリを追い回すように、ゴキブリの上で鉛筆を回す.
「バーン」ゴキブリを鉛筆で突き殺す.
「殺さないで」ボーレットが叫ぶ.
「爆弾が落ちた」
戦争の遊びは、その被害者の悲惨な感情を、より悲惨な形で呼び起こさせるものだと思いますが、それはさておき、ゴキブリを殺したミシェルは、ゴキブリを殺してはいけないとは考えていませんでした.そして、戦争が人間を(生き物を)殺す行為であるとも、考えることなく、戦争の真似、爆撃を真似てゴキブリを殺してしまいました.
第二次世界大戦開戦時の日本国民の心は、神国日本は絶対に負けることはない、であり、自分達が負けることを考えることは全く無く、相手はゴキブリと大差のない米英の鬼畜生と思い込みました.
遊びで戦争を行ってはならないのは当然のはずなのですが、日本国民の多くは、ミシェルが遊びでゴキブリ殺したのと大差のない考え方で、戦争を真剣に考えることなく戦争を行ったと言えます.
監督 ルネ・クレマン Rene Clement
製作 ポール・ジョリ
原作 フランソワ・ボワイエ
脚本 ジャン・オーランシュ
ピエール・ボスト
撮影 ロベール・ジュイヤール
音楽 ナルシソ・イエペス
出演
ポーレット..........ブリジット・フォッセー Brigitte Fossey
ミシェル・ドレ......ジョルジュ・プージュリイ
ミシェルの母........シュザンヌ・クールタル
ジョルジュ..........ジャック・マラン
ミシェルの父........リュシアン・ユベール
ベルト..............ロランス・バディ
フランシス..........アメディー
司祭................ルイ・サンテヴェ
レイモン............ピペール・メロヴィ
両親を亡くした幼い少女、その少女が両親の死を理解するまでの姿を通して、人間のエゴを、少し言い換えれば、ミシェルとボーレット、二人の子供の純真な心と対比させ、大人のエゴを描いた映画と言ってよいでしょう.
1.冒頭に描かれる戦争のシーン、戦争は人間のエゴによるもの
2.避難民が先を争い、故障した車を落とす
3.荷車の夫婦、夫を急かす、荷車の上の妻
4.仲の悪い、隣り合った二軒の農家
5.互いに家同士が仲が悪いからと言って、好き合った男女を引き裂こうとする
6.「順序が逆だと言われた」懴悔に行きながら、この会話を交す男女
7.霊柩車の十字架を盗んだ懴悔の後、祭壇の十字架を盗もうとしたミシェルはおまけ
8.ミシェルを騙し、十字架のありかを聞き出した後、ボーレットを警察に引き渡した両親、
ざっと上ただけで、八つほど.
主人公の少女があまりにも幼すぎる、その演技をどう理解して良いか、迷いましたが、けれども、ルネ・クレマンは、人が人の死を、子供が親の死をどの様に受け取るのか、きちんと捉えた上で、映画を描いているのは間違いないようです.
大人でも近親者の死、それをきちんと受け止めるのは難しいもの、例えばお酒を飲んで、和らげながら受け止めるものなのですが.
さて、子供の場合は.それは、この映画に描かれたとおり、最初は全く理解できない、理解しようとしないものであり、どうするかというと、身近な他の悲しみに置き換える、まず愛犬の死に置き換えました.それを契機に、お祈りを覚え、様々な動物のお墓を作る遊びに夢中になりました.それらは、子供の心の中で、両親の死が置き変わったものであり、やがて、理解することの出来ない悲しみの上に、幼いながらも愛情、友情が覆い被さって行くことになりました.
そして、ラストシーン.
「ミシェル、ミシェル」
「ママ、ママ」
「ミシェル、ミシェル・・・・・」
これは、描かれたとおりに受け取るべきだと思います.幼い子供同士であろうとも、男女の仲を引き裂くこと、そこにある悲しみ、苦しみは、人の死、両親の死による悲しみ、苦しみと同じものであり、ミシェルとの別れによって、ボーレットは両親の死を理解することになりました.
戦争による死の悲しみも、男女の仲を引き裂く事による悲しみも、同じもの.
戦争は、家族を、あるいは好き合った恋人同士を引き裂く、家同士のエゴで、好き合った男女を引き裂くのも、それは当然、同じことである.
両親を亡くした幼い少女が、その悲しみをどのように理解するのか、その姿を通して、人の死と言うものを考えさせる.と同時に、死の逆、生きるということがどう言うことか、極めて客観的に言うことができる幸せ、好き合った男女が一緒に暮らすことの大切さを、合せて考える事によって、人と人とが殺し合う行為、戦争とはどのような事かを、考えさせる映画としておきましょう.
ミシェルが爆撃の真似をして、ゴキブリを殺すシーン.
「バルルル、バーン」ゴキブリを追い回すように、ゴキブリの上で鉛筆を回す.
「バーン」ゴキブリを鉛筆で突き殺す.
「殺さないで」ボーレットが叫ぶ.
「爆弾が落ちた」
戦争の遊びは、その被害者の悲惨な感情を、より悲惨な形で呼び起こさせるものだと思いますが、それはさておき、ゴキブリを殺したミシェルは、ゴキブリを殺してはいけないとは考えていませんでした.そして、戦争が人間を(生き物を)殺す行為であるとも、考えることなく、戦争の真似、爆撃を真似てゴキブリを殺してしまいました.
第二次世界大戦開戦時の日本国民の心は、神国日本は絶対に負けることはない、であり、自分達が負けることを考えることは全く無く、相手はゴキブリと大差のない米英の鬼畜生と思い込みました.
遊びで戦争を行ってはならないのは当然のはずなのですが、日本国民の多くは、ミシェルが遊びでゴキブリ殺したのと大差のない考え方で、戦争を真剣に考えることなく戦争を行ったと言えます.