映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

成瀬巳喜男 映画『山の音』 川端康成原作 (1954年)

2020年08月18日 22時58分50秒 | 成瀬巳喜男
『山の音』 95分
公開 1954年1月15日

監督  成瀬巳喜男
製作  藤本真澄
原作  川端康成
脚本  水木洋子
撮影  玉井正夫
美術  中古智
編集  大井英史
音楽  斎藤一郎

出演
尾形菊子........原節子
夫・修一........上原謙
尾形信吾........山村聡
妻・保子........長岡輝子
相原房子........中北千枝子
夫・相原........金子信雄
谷崎英子........杉葉子
戦争未亡人絹子.....角梨枝子
同居人池田.......丹阿弥谷津子
信吾の友人.......十朱久雄


『子供と大人』、『子供と親』

同居人の池田
夫修一の浮気相手、戦争未亡人の絹子は、池田というやはり戦争未亡人と同居していた.彼女は子供を夫の元に残して別れたらしいが、部屋には子供の写真が大切に飾ってあった.別れて離れ離れになっても親子は親子、親子の関係は変わるものではない.彼女は子供と離れ離れになっても母親であった.

戦争未亡人の絹子
修一は浮気相手の絹子に子供が出来たと知ると、堕せと迫り暴力をふるった.絹子が産むと言って拒むと、修一は彼女を階段から引きずり下ろした.そうした暴力をふるう修一に対して、絹子は「あなたの子供では無い」と言って、お腹の中の子供を守ったのだった.まだ子供は生まれていなかったのだが、既に彼女は母親であった.

菊子
夫と別れる決心をした菊子は子供を堕していた.子供を産みさえすれば親になるのではないにしても、それ以前に彼女は母親になることは全く考えなかったのだろうか.

妹の房子
甲斐性のない夫に愛想を尽かして子供を連れて戻ってきたようであっても、たぶん母親から貰ったのであろうお金を郵便局で夫に送金していた。
結婚するのも別れるのも親任せ、自分の事を自分で決めることのできない.....つまりは子供だった。

さてもう一度、菊子
台風の日、父親の信吾と夫の修一は一緒に濡れながら帰ってきた。菊子は父親の信吾が服を脱ぐのを手伝い、脱いだ服をハンガーにかけた.
夫の修一に対しては.....ほったらかしだった.
母親の保子は.....見てるだけで何もしなかった.
この母親は嫁の菊子を女中の様にこき使うだけで、自分では家事を何もしないらしい.
他方、信吾はと言えば、息子の嫁を自分の妻のように扱う、酷い爺さんだった.

子供の修一、その親の信吾
娼婦のような性行為を求める事が、大人の愛情なのかどうなのか知らないが.....
愛人に子供が出来たと知ると、暴力をふるって子供を堕すように迫った酷い男だった.男女の自然な恋愛感情だけでなく、親としての愛情を持ち合わせない酷い男、どうしてこんな酷い子供が出来たのか.....と、問えば、親の子育てが悪かったに他ならない。
そして、もう一つ書き加えれば、息子の浮気相手とは言え絹子のお腹の子は信吾にとって孫ではないのか.なのにお金を渡しそれで終わりにしようとしたこの信吾は、息子同様に親の心を持ち合わせない薄情な人間と言えるであろう.

もう一度『子供』
菊子.夫よりも父親の方を大切にする女だった.娼婦のような性行為を行う女が大人の女なのかどうかは知らないが、もっと夫を大切にしなければ、これでは夫が浮気をして当然と言える。

そしてもう一人、どうしようもない『子供』
遺族に買ってくれるように頼まれたという能面、友人が買うのかと思っていたらいつのまにか信吾が買うことになっていたようだ.その能面、どう見ても大人の顔をしているのだが、子供の面だという.

女の子が産まれたが綺麗でなかったので、その子を可愛がりはしなかった.これは親かどうかと言う以前に、人間としてどうなのか疑われることなのではなかろうか.
確かに男にとって誰でもブスより美人が良いのだろうけど、けれども妻を容姿だけで選ぶ、あるいは女性を容姿で差別する男、その考え方は子供のままと言うべきではないのか?.そしてそれが、何歳になっても一向に変わらないとしたら尚更に.....信吾はもう救いようがない、子供の侭に年を取った人間だった。




美人の姉のことが忘れられず妹の方と結婚したくせに、信吾は、なんでこんな女と一緒になったのか、と不満を持ち続けて居るらしい.








夫の湯たんぽくらい、妻が自分で持って行け.....




皆の前でここまではっきりと言っているのに、父親の信吾も妻の菊子も、修一の言葉について問い質そうとはしなかった.

夫と二人で居る時、妻が嬉しそうにするのは極めて自然な事なのだけど.....







別居したらどうかと言われても、信吾には親の自分に問題があるのだとは思えなかったらしい.




子供が出来た絹子は、しっかりした母親としての自覚を持っていた.







自分の娘の作った食事を、口で不味いと言わないけれど、不味そうな顔をして食べる父親.
それにしても信吾の妻保子は、食事の支度をしないらしい.夫が美人ではない娘を嫌っているのが分ってるのだし、妻が夫の食事の支度をするのは当然の事なのに.













あに・いもうと (1953年8月19日公開 86分 成瀬巳喜男 大映)

2018年03月29日 03時43分50秒 | 成瀬巳喜男
『あに・いもうと』 (1953年8月19日公開 86分 成瀬巳喜夫 大映)
監督  成瀬巳喜男
企画  三浦信夫
原作  室生犀星
脚本  水木洋子
撮影  峰重義
美術  仲美喜雄
衣裳  堀口照孝
編集  鈴木東陽
音響効果 花岡勝次郎
音楽  斎藤一郎
助監督 西條文喜

出演
姉 もん...京マチ子
妹 さん...久我美子
兄 伊之吉..森雅之
小畑.....船越英二
うどん屋の息子鯛一...堀雄二
赤座.....山本礼三郎
妻りき....浦辺粂子
貫一.....潮万太郎
喜三.....宮嶋健一
坊さん....河原侃二
豊五郎....山田禅二
とき子婆さん.本間文子


成瀬巳喜男は、原作を忠実に描く監督なのですが(悪く言えば能無し)、この作品、最後の方でしくじっているのですね.
好きだったうどん屋の息子の家はバス停のすぐ前だった.妹はおそらく彼がもう結婚しているであろう、そう思うと会いたくなくて、いつものバス停ではなく、別のバス停から歩いて帰ってきた.「変な道から来たのね」と言って、姉と出会いました.
東京へ戻る時も同じで、妹はうどん屋の息子に会いたくないので、「次のバスまで歩くの、暑いわね」と言う姉の言葉になるのですが、この辺の会話は変です.
「どうして、次のバス停まで歩くの?」「別に、なんでもないの」と言うような、ちょっと変な会話に変えれば、妹がうどん屋の息子に会いたくないのだと言うことがよく分るのですが.
さて、それはそれとして、次の会話.「今度何時帰ってくるのと」、妹が聞いたら、「母さんたちの顔を観たくなったら.あんな兄でも顔を見たくなるときがあるの」と、姉は答えました.兄は「『お前なんか、顔を観たくない.出て行け」と、姉に言ったのですが、「嫌な兄だけど、顔を観たくなるときがある」、姉はこう言ったのですね.
兄、妹の対比がここにあるのですが、会いたいと思う、それが家族の自然な心のはず.
妹とうどん屋の息子の場合では、うどん屋の両親は二人が会うのを邪魔しました.それは、息子の心を何も考えない行為であり、家族の心とは言えません.
それに対して、この兄妹の両親は、父親は昔気質の頑固親父だったのですが、もう、おそらく娘が会いたくないであろう、そう思われる男が尋ねてきたとき、丁寧に応対をしました.娘に会いに来た男を、決して粗末には扱わなかった、恨みのある相手であっても、会いたいという心を大切にした、ここに、家族の心があると言えるはずです.






君と別れて (1933年4月1日公開 60分 成瀬巳喜男)

2015年12月25日 07時18分13秒 | 成瀬巳喜男
『君と別れて』

監督  成瀬巳喜男
原作  成瀬巳喜男
脚色  成瀬巳喜男
撮影  猪飼助太郎

出演
吉川満子  芸者菊江
磯野秋雄  義雄
水久保澄子 芸者照菊
河村黎吉  父
富士龍子  母
藤田陽子  妹
突貫小僧  弟
新井淳   菊江の旦那
飯田蝶子  芸者屋の女将


江ノ島へ行く電車の中、照菊の話し
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義雄さん、私とこうやって並んでいて嫌じゃない?
よその人達、私達二人をなんだと思うでしょう
兄妹?、恋人同志?
きっと兄妹だと思うわね
私本当に、義雄さんのような兄さんがほしいわ
私には妹と小さい弟があるのよ
だけどいろんな心配事を相談したりするにはまだ小さいの
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義雄は母親の仕事、芸者という不誠実な仕事を嫌い、ぐれて不良仲間と付き合い始めていた.
不誠実を嫌った彼自身が、学校へも行かず不誠実な生き方を始めていたのだが.
照菊は義雄に困り事を相談できる、頼れるお兄さんになって欲しいと言った.
頼られる人間とは、誠実な人間でなくてはならない.

照菊の親は、仕事をせず酒ばかり飲んでいる不誠実な人間で、照菊だけでなく妹も芸者に売り飛ばそうとしていた.
照菊は妹を守るために、お金のために自らより不誠実な仕事へと身売りをする覚悟でいた.
自分自身に誠実であろうとするが故に、より不誠実な生き方を為ざるを得ない、自分の悩みを理解して欲しいと、照菊は義雄に望んだ.











はたらく一家

2013年01月26日 03時00分42秒 | 成瀬巳喜男
(1939/03/11 65min)

1937年7月、北支事変より日中戦争が始まり、1938年4月1日、国家総動員法により管理統制経済に移行し、戦時色を強めていった.社会問題を扱う映画の場合、軍国主義に傾倒して行く時代背景が、大きな影響を与えていることは、考慮しなければなりません.
そしてもう一点触れておけば、戦前は、高等教育よりも兵士、男の子の高等教育の学費は、べらぼうに高かったそうです.
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さて、はたらく一家.
現在でも、子供が3人いたら、大学まで行かせようとすると至難の業.
こんなに沢山子供がいたら、満足に学校へ行かせることが出来ないのは、現在でも同じです.
一番にいけないのは、子供が沢山いすぎることなのですが、この映画、何が言いたいのでしょうか?
と考えると、小学生くらいの子供が小銭を貯めていたのだけど.
隣家の結婚祝いだったと思うのですが、親が子供のお金を借りようとしたら、その子は、兄弟を引き連れて食堂へ行き、皆で好きな物を食べて、お金を全部使ってしまった.
その時、家族が何か困ったことになったかと言えば、特に困ったことにもならなかったのですが.それはさておき、親が親が子供のお金を当てにすること、それが間違っているのだ、と、この点は明瞭に描かれていると言えます.
子沢山は置いておくとして、親が子供の稼ぎを当てにしている事、これが一番いけないことであり、その点は、現在でも何も変わることはありません.

なんとも中途半端で終わってしまう感が拭えない点は、やはり成瀬巳喜男の演出のせいだと、非難を受ける事になるのでしょうか?.
けれども、現実の問題として解決策がない問題は、このような終わり方しか出来ないのも、事実と言わなければなりません.自分たちが変わって行かなければ解決しない問題なのですから.
こう考えると、戦時色とは関係のない作品なのですが、体制批判と受け取られないように余計な苦労をするような、やはり表現としては戦争の影響を受けているのではないのか?、もう2年ほど前に撮られていれば、もう少し違った演出が出来たのではないのか、と思えます.
(へたくそと言ってしまえば、それまでですが)

雪崩 (1937年 59分 成瀬巳喜男 P.C.L.映画製作所)

2012年12月05日 05時43分26秒 | 成瀬巳喜男
『雪崩』 (1937年 59分 成瀬巳喜夫 P.C.L.映画製作所)
監督  成瀬巳喜男
製作  矢倉茂雄
原作  大佛次郎

構案  村山知義
脚色  成瀬巳喜夫
撮影  立花幹也
録音  鈴木勇
装置  北猛夫
編集  岩下廣一
音楽  飯田信夫

出演
横田蕗子.....霧立のぼる
日下五郎.....佐伯秀男
江間弥生.....江戸川蘭子
五郎の父.....汐見洋
   母.....英百合子
蕗子の父.....丸山定夫
小柳弁護士....三島雅夫
弥生の弟.....生方明



『今までは忙しかったので、子育てをお前に任せてきたが.これから先は私の役だ.お前も良くやってきてくれたことには感謝しているが』
長い会話なので要約すると、父親は母親にこのように言いました.これからは、子育ては、母親に代わって自分がやると言いました.
『紙のように薄っぺらなお前の真実と別れるか、それとも、おまえの自由を跋扈して俺の力と手を切るか』
そして、父親は五郎にこのように言ったのですが、これは子育てとしての言葉だったのですね.
『よござんす、嘘つきになりましょう』
五郎は、こう答えました.
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『私の金に頼って蕗子とこのまま一緒に暮らすか、おまえの自由を取って蕗子と別れるか』父親と五郎の会話を要約すればこうなります.
五郎は、父親の言葉に従って蕗子と一緒に暮らしていたのだけど、嫌で嫌でたまらなくて、心中しようと考え、次には蕗子だけ殺そうと考えました.つまり、五郎は幸せであったとは言えず、自分を殺そうと考えるような男と一緒に暮らしている蕗子にしても、幸せな生活とは言えませんでした.
いまひとつの方、五郎が父親に逆らって蕗子と別れたとしたら、やはり蕗子は不幸であったと考えると、父親が五郎に言った言葉は、どちらをとっても、蕗子は幸せになれなかったのです.
五郎が心中しようとしたとき、蕗子はなぜ心中するのか聞きました.そして二人の会話によって、五郎は心中をするのをやめました.
夫婦が話し合ったら心中をやめることになった.幸せになったと言えなくとも、不幸な出来事は避けられました.他方、親が何を言っても子供を幸せにすることが出来なかった.つまりは、結婚するにしろ、別れるにしろ、男女の二人が話し合って決めることであり、親が指図して決めることではない.
五郎は蕗子と一緒になるために駆け落ちのまねをして、無理矢理結婚を認めさせました.その時、父親が迎えに来ることを分っていてやったのですが、簡単に言えば親に甘えている人間なのです.五郎は蕗子との結婚を決めるときに、二人で話し合って決めたのではなく、親に甘える方法で決めたのです.
蕗子は従順なだけが取り柄の女性.言い換えれば自分では何も決められない女性.つまりは自分一人では生きて行かれない女性である.
弥生は、自分の力で生きて行きたいと考えた.そう考えて五郎との結婚を躊躇ったのだけど、結局は五郎の強引さに負けてしまった.
3人まとめて考えれば、誰一人として、自分の力で生きて行ける子供はいない.つまりは親の子育てが間違っていたのです.
蕗子が日本髪を結って実家に帰ったとき、父親の友人の弁護士が遊びに来ていた.弁護士に、『娘の結婚の時、世話になった』と言ったのですが、蕗子の父親も、娘の幸せを考えた行為としたら、やはりおかしな感覚の父親であったと思います.

今一度まとめれば、
結婚するのも、別れるのも、子供を育てることも、男女の二人が、夫婦の二人が、話し合って決めなければいけないことである.
親が子供を幸せにしてやると考えることは間違いであり、子供が自分の力で幸せをつかむことが出来る力を育てること、それが正しい子育てである.
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大佛次郎の原作を忠実に再現しているのですが、残念ながら原作の持つ芸術性を誰も理解できないので、非常に低い評価に終わってしまったことは、成瀬巳喜男に取っては非常に不幸なことだったと思います.