映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

小説『たけくらべ』 樋口一葉作

2018年12月18日 09時56分30秒 | 邦画その他
小説『たけくらべ』 樋口一葉作

『たけくらべ』 樋口一葉作

映画『たけくらべ』(五所平之助監督)が、DVDで発売されるとよいのですが.
樋口一葉の文章が難しいだけでなく、街並み一つ取っても、当時の風情を現在の情景から推察することは不可能なので、いくら読み返しても理解するのが困難なのですが、映画ならば何の苦もありません.


【美登利】
遊女に売られた姉が売れっ子の花魁になったが為、姉よりも綺麗な彼女も、より売れっ子の花魁になるであろうと、両親共々遊郭で暮らすようになった.

子供の彼女は花魁という姉の職業を全く理解していなかったので、有名人、著名人の客を沢山持ち稼ぎの多い姉のことを自慢に思っていた.そして、彼女は、将来、大金を生む花魁になることを前提に、甘やかされ、我が儘に育ったのだった.

年頃になった彼女は、大人の男女の関係がどの様なことか、次第に理解されて来た.....そう遠くない将来に、姉と同じように花魁として客を取ることになる、そう言う年頃になって、彼女にも大人の男女の関係がどの様なことなのか理解され、同時に、花魁にならなければならないという、自分の境遇も理解されたのだった.
年頃の男女が好きになれば、自然と身体を求めあうことになる.けれども遊女は.....

彼女に与えられた遊女という職業は、異性に対して誰でもが自然に抱く、好きという感情が許されないしきたりの世界だった.
彼女は姉の職業を自慢に思ってきたが、子供だから知らなかっただけで、分っていたら自慢なんかしなかったはず.あるいは逃げ出していたかも知れないけれど.....けれども、今はもう、自分の力で自分の将来を選ぶことは、出来ないことだった.....

【信如】
僧侶の父親はうなぎの蒲焼きが好物の生臭坊主で、他方母も、その生臭坊主と二十ほども年が離れていながら一緒になった女だった.
男女の関係を素直に受け取ることが出来ない家庭環境に育った彼は、美登利と仲良くしていることをからかわれて、年頃の男女が誰でも抱く、互いに好き合う自然な感情を、汚らわしい感情と考えたのであろうか.....すぐに美登利を避けるようになり、そして自ら僧侶の学校へ、男女の恋愛感情を否定する、僧侶の修行の道を選んだのだった.

【金貸しの正太】
彼は片思いに過ぎなくても、純真な気持ちで美登利を好きだった.
花魁になれば、男女の恋愛の道が絶たれる美登利に対して、
『自分は片思いだからいいけれど、でも、信如は.....』、彼はこう言ったはず.

【貧乏な三五郎】
『将来、金を溜めて、花魁になった美登利を買うんだ』

映画『夜の女たち』で、溝口健二は街娼をしている女たちに、「子供を生む喜びを、女としての喜びを失わないで欲しい」と訴えました.
フランス、パリの売春婦を描いた映画『女と男の居る舗道』で、ゴダールは、「人を好きになる心を思い出しなさい.人を好きになる心で、今の自分の境遇が、満足の行く生き方かどうか、考えて欲しい」と、訴えました.

さて、たけくらべに戻って.
美登利は自分の人生を、自分の力で変えることは出来ませんでした.細やかな救いに過ぎないかもしれないが、彼女が自分自身を救う道は、人を好きになる心を彼女自身が失わない事だけ.
と、こう書けば、彼女が好きになった相手の信如の心が、それからの美登利の人生に、何れほどの影響を与えたであろうかと思えてくる.

『詫びる心』『礼を言う心』
信如の仲間の長吉が、暴力を振るって美登利達のお祭りの催しをめちゃくちゃにしてしまった.
彼の知らなかったこととは言え、信如は美登利にきちんと詫びなければならなかったはずだ.
雨降りに下駄の鼻緒が切れた.美登利は『これを使いなさい』と、布切れを投げてくれたのだから、素直に受け取ってお礼を言っていれば、そうすれば再び二人の間に、年頃の男女の自然な感情がよみがえってきたであろうに.....

遊女に売られた女の子たち、彼女たちを救えるのは男の子の優しい心である.
大黒屋の寮の前で、信如が詫びて、お礼を言っていたならば、美登利はどんなに救われたことか.....
どの様なことがあっても、美登里は人を好きになる心を失わず生きて行かなければならない.信如の心は彼女にとって大きな支えになったはずなのだ.