映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

居酒屋(ルネ・クレマン 原作 エミール・ゾラ 1956年 112分 フランス)

2016年04月01日 22時21分21秒 | ルネ・クレマン
『居酒屋』
監督  ルネ・クレマン
製作  アニー・ドルフマン
原作  エミール・ゾラ
脚本  ジャン・オーランシュ
    ピエール・ボスト
撮影  ロベール・ジュイヤール
音楽  ジョルジュ・オーリック

出演
ジェルヴェーズ...マリア・シェル
グジェ.......ジャック・アルダン
クポー.......フランソワ・ペリエ
ランチェ......アルマン・メストラル





自尊心、この映画では、自分を尊ぶ心
虚栄心、見栄、外見を良く見せようとする心

「ルーブル美術館に行くか」「何しに」
おおよそ美術館にふさわしくない一行が美術館にやってきて、下品な絵を探しては、愚劣な言葉を交わす.その中にあって一人物静かに絵を観て回るグージェ.
「自尊心がそうさせるのだと思った」、ジェルヴェーズは彼を見てそう思った.

さて、話を戻して.
ランチェは朝帰り.女にもらった花を胸にさして帰ってきた.妻の自尊心を逆撫でする行為.
そのランチェをジェルヴェーズは、一言二言の甘い言葉を言われただけで許してしまった.
『足の悪い自分にとって過ぎた夫だった』と彼女は言ったのだが、どういうことなのか.
ランチェは女にもてた.要するに見栄えの良い男.その男を自慢した言葉、虚栄心に過ぎないのであろう.

妹がランチェと駆け落ちし、それを知ったジェルヴェーズがどんな様子か、姉の方は洗濯場へ探りに来た.『あの女は男に逃げられた』と言った話であろう、ジェルヴェーズの様子を伺いながら陰口を囁きあった.やがて、殴り合いが始まって、ジェルヴェーズはとことんまで相手を殴りつけ.....
ジェルヴェーズは相手が自尊心を保ち得ないほど殴りつけ、自分の勝利を居合わせた者達に見せつけた.これも虚栄心.

自分の店を持ちたいと必死に働いたジェルヴェーズ.朝早くから夜遅くまで必死に働いた、この姿は自尊心から来るものと思う.けれども、使用人から主人になりたいという望みは虚栄心、と言うのは酷だろうか.....
怪我をしたクポーを病院に入れず自宅で看病すると言ったのは、おそらく虚栄心であろう.そして医療でお金を使い果たしたのに、彼女は未だ自分の店を持つ望みを捨てきれなかった.グージェの申し出を受け入れ、クポーも同意したのだった.が、そのクポーが『グージェの店など』と言って、店をたたき壊す事になった.
怪我をして働けない身で、妻が他の男の援助を受けて店を持った.店が繁盛するほど夫であるクポーの自尊心を損ねることになったのではないか.

ジェルヴェーズは再び出会った淫売の姉に、出会ったばかりの女に自分の身の上話を全て話してしまった.店を持って主人になるまでの話をした.これは自慢話、要するに彼女の虚栄心に過ぎない.

クポーはグージェに返済するお金を飲んでしまった.それでも彼女は豪勢な誕生パーティを開きたかった.開いた.虚栄心.
他方、怠け者になったクポーは自尊心を失ってしまっていた.金を盗んで酒を飲み、おおよそ受け入れ難いランチェを家に招き入れ、更には部屋を貸して住まわせてしまった.

夫のクポーは一人でどこかへ飲みに出かけ家に帰ってこなかった.妻のジェルヴェーズは淫売の姉とランチェと一緒に、酒場へ出かけた.そして家に帰ってきて、ジェルヴェーズはランチェに抱かれることになる.へどを吐いて寝ているクポーを観て、ジェルヴェーズの方からランチェにすがりついて行ったのだった.
淫売の姉には騙されたとしても、ランチェは自分と子供を捨てた生涯許し難い男のはず.その男と夫が行へ知れずの日に、彼女は遊びに出かけている.自尊心を持った人間の行いではない.

『淫売の姉が留守の間のことをグージェに喋った』と、ジェルヴェーズは言ったのだが、喋ったかどうかの問題ではなく、彼女が現実に何をしたかの問題である.ジェルヴェーズはあくまでも白を切り通そうとしたが、グージェは彼女の前から去っていった.彼女に自尊心があれば、真実を話し詫びたであろう.







ジェルヴェーズに自尊心があれば、決してランチェに抱かれることはなかったはずである.それ以前に一緒に遊びに出かけることも、しなかったはず.
彼女は美術館でグージェに好意を抱いた.彼の自尊心に心を引かれたはずである.そのジェルヴェーズがグージェに対する思いを大切にしたならば、ランチェを許容するようなことはなかったはずである.
自分を尊ぶのも、(好意を寄せる)相手を尊ぶのも同じことである.いくらかでも相手を尊ぶ心があれば、洗濯場であのような殴り方はしないはず.
相手を尊ぶことが出来なかったジェルヴェーズは、自分を尊ぶことが出来ない末路を辿ることになった.
あるいはこう言うべきか.自尊心が虚栄心に必ず負けてしまう人間だった.


.....自尊心がそうさせるのだと気付いた


エチェンヌとグージェはリールへ旅立つ

ジェルヴェーズのランチェとの関係が浮気であったならば、グージェに対する気持ちも浮気心であり許されないのか?.....
自尊心とは、好きな相手を好きであり続ける心、であると同時に、決して好きになることが出来ない相手を、嫌うべき相手を嫌いであり続ける心でもある.


なぜグージェは接吻を躊躇ったのか.....
好きな相手を、好きであり続けるためであろう.

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原作の居酒屋
『労働者の実態に光を当て、彼らに対する教育の必要性を説くことを業とする』
と、ゾラは作品の目的を冒頭で述べて始まります.

ナナの転落、色目遣いに寄ってきた男に付いて行ったのであろうナナの姿は、かつてジェルウェーズがランチェに出会った頃と同じであろう.
それに、幼気な純真な少女ラリーの死、それらから何を考えるのか?.
転落してしまった親たちは救いようがないが、子供たちを親たちと同じ道を歩ませてはならない.
そのためにはどうしなければならないのか.....
義務教育の必要性を訴えた作品です.
(義務教育の必要性自体は、以前にパリコミューンが提言を行っていて、もう一度ゾラは訴えた)

映画は、
先の2点は全く描かれず、グージェの描き方も違う.原作では、グージェは体を売りに出たジェルヴェーズに街角で出会うことになる、遥かに残酷な描写.

ルネ・クレマンは、グージェの描き方を変えて、ジェルヴェーズとの巡り会いと別れから、自尊心とはどの様なものか描いた.
辞書を引いても解らない、現実の世界での自尊心を描いていると言える.
破壊と創造により、純真な心で二人の出会いと別れを考えれば、直接理解できるはずなのだが.
私は俗世で考えるので、残念ながら回り道をして考えることになった.

書き添えれば、ジェルヴェーズがグージェの援助によって店を始めることにより、クポーはいじけて自尊心を失って行くことになった.
他に良い方法があったのか?、これは解決の方法はない.


ルネ・クレマンは、グージェの描き方を変えて、ジェルヴェーズとの巡り会いと別れから、自尊心とはどの様なものか描いた.
辞書を引いても解らない、現実の世界での自尊心を描いていると言える.
破壊と創造により、純真な心で二人の出会いと別れを考えれば、直接理解できるはずなのだが.
私は俗世で考えるので、残念ながら回り道をして考えることになった.

書き添えれば、ジェルヴェーズがグージェの援助によって店を始めることにより、クポーはいじけて自尊心を失って行くことになった.
他に良い方法があったのか?、これは解決の方法はない.

以前に、子供と心の教育相談、だったと思うけどラジオの番組で、大学教授の児童心理学者が子供の相談に応じていた.
相談者の断片的な話から、実に的確な回答を行っている、その相談内容は『禁じられた遊び』そっくりであった.

この映画を児童心理学者が観れば、こう言うであろう.
『なぜ、あの時、グージェが接吻を躊躇ったのか.それを良く考えてみてください.その上で、二人の出会い、二人の別れを考えればよく分るはず』
俗世の不純な心による考え方と、破壊と創造による純真な心による考え方は、必ずと言ってよいほど逆になる.

禁じられた遊び - JEUX INTERDITS - (ルネ・クレマン)

2014年06月30日 16時29分35秒 | ルネ・クレマン
禁じられた遊び - JEUX INTERDITS - (1952年 87分 フランス)

監督  ルネ・クレマン Rene Clement
製作  ポール・ジョリ
原作  フランソワ・ボワイエ
脚本  ジャン・オーランシュ
    ピエール・ボスト
撮影  ロベール・ジュイヤール
音楽  ナルシソ・イエペス

出演
ポーレット..........ブリジット・フォッセー Brigitte Fossey
ミシェル・ドレ......ジョルジュ・プージュリイ
ミシェルの母........シュザンヌ・クールタル
ジョルジュ..........ジャック・マラン
ミシェルの父........リュシアン・ユベール
ベルト..............ロランス・バディ
フランシス..........アメディー
司祭................ルイ・サンテヴェ
レイモン............ピペール・メロヴィ




両親を亡くした幼い少女、その少女が両親の死を理解するまでの姿を通して、人間のエゴを、少し言い換えれば、ミシェルとボーレット、二人の子供の純真な心と対比させ、大人のエゴを描いた映画と言ってよいでしょう.

1.冒頭に描かれる戦争のシーン、戦争は人間のエゴによるもの
2.避難民が先を争い、故障した車を落とす
3.荷車の夫婦、夫を急かす、荷車の上の妻
4.仲の悪い、隣り合った二軒の農家
5.互いに家同士が仲が悪いからと言って、好き合った男女を引き裂こうとする
6.「順序が逆だと言われた」懴悔に行きながら、この会話を交す男女
7.霊柩車の十字架を盗んだ懴悔の後、祭壇の十字架を盗もうとしたミシェルはおまけ
8.ミシェルを騙し、十字架のありかを聞き出した後、ボーレットを警察に引き渡した両親、
ざっと上ただけで、八つほど.

主人公の少女があまりにも幼すぎる、その演技をどう理解して良いか、迷いましたが、けれども、ルネ・クレマンは、人が人の死を、子供が親の死をどの様に受け取るのか、きちんと捉えた上で、映画を描いているのは間違いないようです.
大人でも近親者の死、それをきちんと受け止めるのは難しいもの、例えばお酒を飲んで、和らげながら受け止めるものなのですが.
さて、子供の場合は.それは、この映画に描かれたとおり、最初は全く理解できない、理解しようとしないものであり、どうするかというと、身近な他の悲しみに置き換える、まず愛犬の死に置き換えました.それを契機に、お祈りを覚え、様々な動物のお墓を作る遊びに夢中になりました.それらは、子供の心の中で、両親の死が置き変わったものであり、やがて、理解することの出来ない悲しみの上に、幼いながらも愛情、友情が覆い被さって行くことになりました.

そして、ラストシーン.
「ミシェル、ミシェル」
「ママ、ママ」
「ミシェル、ミシェル・・・・・」
これは、描かれたとおりに受け取るべきだと思います.幼い子供同士であろうとも、男女の仲を引き裂くこと、そこにある悲しみ、苦しみは、人の死、両親の死による悲しみ、苦しみと同じものであり、ミシェルとの別れによって、ボーレットは両親の死を理解することになりました.
戦争による死の悲しみも、男女の仲を引き裂く事による悲しみも、同じもの.
戦争は、家族を、あるいは好き合った恋人同士を引き裂く、家同士のエゴで、好き合った男女を引き裂くのも、それは当然、同じことである.
両親を亡くした幼い少女が、その悲しみをどのように理解するのか、その姿を通して、人の死と言うものを考えさせる.と同時に、死の逆、生きるということがどう言うことか、極めて客観的に言うことができる幸せ、好き合った男女が一緒に暮らすことの大切さを、合せて考える事によって、人と人とが殺し合う行為、戦争とはどのような事かを、考えさせる映画としておきましょう.


ミシェルが爆撃の真似をして、ゴキブリを殺すシーン.

「バルルル、バーン」ゴキブリを追い回すように、ゴキブリの上で鉛筆を回す.
「バーン」ゴキブリを鉛筆で突き殺す.
「殺さないで」ボーレットが叫ぶ.
「爆弾が落ちた」

戦争の遊びは、その被害者の悲惨な感情を、より悲惨な形で呼び起こさせるものだと思いますが、それはさておき、ゴキブリを殺したミシェルは、ゴキブリを殺してはいけないとは考えていませんでした.そして、戦争が人間を(生き物を)殺す行為であるとも、考えることなく、戦争の真似、爆撃を真似てゴキブリを殺してしまいました.

第二次世界大戦開戦時の日本国民の心は、神国日本は絶対に負けることはない、であり、自分達が負けることを考えることは全く無く、相手はゴキブリと大差のない米英の鬼畜生と思い込みました.
遊びで戦争を行ってはならないのは当然のはずなのですが、日本国民の多くは、ミシェルが遊びでゴキブリ殺したのと大差のない考え方で、戦争を真剣に考えることなく戦争を行ったと言えます.