映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

映画『イノセント』 - L'INNOCENTE - (1975年 124分 イタリア)

2014年05月22日 23時18分32秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
イノセント』 - L'INNOCENTE -
1975年 124分 イタリア

監督  ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
製作  ジョヴァンニ・ベルトルッチ GIOVANNI BERTOLUCCI
原作  ガブリエレ・ダヌンツィオ GABRIELE D'NNUNZIO
脚本  スーゾ・チェッキ・ダミーコ SUSO CECCHI D'AMICO
    エンリコ・メディオーリ ENRICO MEDIOLI
    ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
美術  マリオ・ガルブリア MARIO GARBUGLIA
撮影  パスクァリーノ・デ・サンティス PASQUALINO DE SANTIS
音楽  フランコ・マンニーノ FRANCO MANNINO

出演
ジャンカルロ・ジャンニーニ GIANCARLO GIANNINI
ラウラ・アントネッリ LAURA ANTONELLI
ディディエ・オードパン DIDIER HAUDEPIN
RUNA MOREKKLLI
MASSIMO GIROTTI
MARIE DUBOIS
ROBERTA PALADINI
CLAUDE MANN
ジェニファー・オニール JENNIFER O'NEILL
マルク・ポレル MARC POREL




わがまま【我が儘】[大辞林より]
(1)他人のことを考えず、自分の都合だけを考えて行動すること。また、そのさま。身勝手。自分勝手。
(連語)自分の意のままであること。
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決闘、相手のことを考えず、自分にとって邪魔な者を殺すこと.
二人の男は、もめ事の元になった女の気持ちを考えることなく決闘に及んだ、女は勝った方のものという我が儘な考え方による決闘だった.が、そのもめ事の元を質せば女の我が儘であり、さらに付け加えればこの女、自分が元で決闘をすることになった、その決闘の最中に居なくなってしまったらしい.全くどうしようもない我が儘な女である.

主人公のこの男、浮気をするにも一見もっともらしい理由を並べたけれど、全く妻の気持ちを考えない、妻に耐えることだけを如いた我が儘な言い訳だった.

「当家の金で洗礼を受けさせてやる」この言葉からは、この男が子供を自分の子供として育てる気持ちだった、少なくとも、つもりであったのが分かる.無心論者のこの男、わざわざ教会に出かけ、洗礼の儀式を陰から見ていた.妻と同じように夜中に子供を見に行っていたらしく、この男、決して子供を殺すつもりはなかったと思われるのだけど.
彼が殺意を抱いたのは、妻の子供を嫌いだと言う言葉を聞いたからであり、つまり、彼は妻の気持ちを考えて殺人に及んだのであって、彼にしてみれば、我が儘とは反対の行動であったのだけど.けれども、新婚当時のようにSEXをする妻が、自分の意のままであると思い込んでいた、妻が自分に嘘をつくとは思っても見なかった、その思い込みが我が儘な思い込みであり、自分の犯した殺人により妻は去って行く事によって、殺人という行為が我が儘な行為である、邪魔だから殺すという行為は、正に我が儘な行為に他ならないことを、彼は思い知ることになった.
彼は自殺をする.自殺とは我が儘な死に方と言えるのだけど、その死に方が、彼の我が儘な生き方の、それに対する責任の取り方でもあったと言えるのでしょうか.

他方の女は、男が自殺した屋敷から逃げ出した.先の自分が元で決闘になった、その決闘をほったらかして勝手に居なくなってしまった例を考えると、この女はめんどうなことは避けて通ること、言い換えれば、自分のしたことに何ら責任を負わないことが生き方らしい.
「男に惑わされる生き方は、そろそろ止めようと思う」と、この女は言ったけれど、この女が二人の男を惑わしたから決闘になったのであり、「男に惑わされる生き方は、そろそろ止めようと思う」、つまり、我が儘な男と付き合うのはよそうと思う、と言いたいらしいけれど、この言葉自体が、我が儘な言いぐさと言える.
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この男の死に様は、孤独であった.振り返れば、夫が浮気をすると言いはり、いつ戻るか分からない旅行に出てしまった.そして、残された妻は孤独であった.我が儘は、孤独をもたらし、そして、人を不安にさせる行為である.
赤ちゃんは人の話し声がした方が、安心してよく眠るという.一人残された妻もまた、作家の言葉を聞いて眠りに就いた.言い換えれば、彼女は作家の言葉に安らぎを求め、作家の言葉が彼女に安らぎを与えたからこそ、二人は関係を持ったと言ってよいのでしょう.

イノセント=インノセント=『罪無き者よ』
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妊娠3か月目のジュリアナは、ベットの上で刺繍をしていた.
夫は彼女に、医者を手配するから、堕胎すように言う.

彼は、話をしながらジュリアナの着物を脱がせ、布団をまくって、そして、寝間着をたくし上げると、彼女、その下には何も身につけていなかった.
「いいか」、彼は、妻の着物を、はぎ取るようにした.
「僕は無心論者だが」、言い終わった時には、ジュリアナは全裸.おっぱいも、あそこのお毛けも見えてる.
「善悪は、自分なりに、意識している」、こう言いながら、全裸の彼女を愛撫する.
「神にさばきを任せはしない」「責任だけはとるつもりだ」、きゃ、もっと見せて、スケベ.
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スケベなシーンを観客は真剣に観てくれるはず、ヴィスコンティはこう考えて、スケベなシンーンを背景にして、大切な言葉を、描き込んでいるらしい.
(もっとも、日本人が観ると、女の子の裸の方へ目が行ってしまい、字幕を読むのはおろそかになってしまうかも?)

「神にさばきを任せはしない.責任だけはとるつもりだ」
つまり、夫は自分は自分で裁くと言い、その言葉の通り、彼は自分を自分で裁いた.子供を殺した罪を、自殺することで償ったのだが、女は、男が自殺した屋敷から逃げ出した.
さて、この女、誰から裁きを受けるのか?
『罪無き者よ』= 自らも含め、誰からも裁きを受けることのない者.





郵便配達は二度ベルを鳴らす (ルキノ・ヴィスコンティ 1942年 140分 イタリア)

2013年10月21日 07時41分42秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』
監督  ルキノ・ヴィスコンティ
原作  ジェームズ・M・ケイン
脚本  ルキノ・ヴィスコンティ
    マリオ・アリカータ
    ジュゼッペ・デ・サンティス
    ジャンニ・プッチーニ
    アントニオ・ピエトランジェリ
撮影  アルド・トンティ
    ドメニコ・スカラ
音楽  ジュゼッペ・デ・サンティス

出演
マッシモ・ジロッティ
クララ・カラマーイ
フアン・デ・ランダ
エリオ・マルクッツオ


ジョバンナは、夫を殺した報いと言ってしまえばそれまでかもしれないが、最後は自分も同じように事故に遭う、不幸な女だった.
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沼地で、ジョバンナは一晩中ジーノを探し求めた.そのことを知ったジーノはジョバンナの正しい心を知ることになる.
パーティの日、スペインはジーノを探し求めてやって来た.窓からスペインの姿を観て、ジーノは嬉しそうに、店の外までスペインを迎えに出た.
人を探し求め訪ねる行為は、人を喜ばせる優しい行為である.ジーノは、スペインとジョバンナに自分を探し求められる、優しい行為に、二度、接しているのだけど.

けれども、刑事に追われていることを知ったジーノは、アニタに助けを頼み、彼は一人で逃げたのでした.そして、ジーノを助けたアニタは、一人残されて泣いたのです.
駆け落ちしようと、逃げ出したジーノとジョバンナ.その理由はさて置き、ジーノはジョバンナを置き去りにして、一人で行ってしまった.
人を探し求める行為、人を迎えに行く行為は優しい行為である.反対に、人を置き去りにする行為は、冷たい行為、優しさにかける行為である.ジーノは二度、好きな女を置き去りにしている.

ジョバンナはジーノからお金をもらいながら、夫にはもらってないと言った.アニタもまた刑事に対する言い訳に、「お金でもめたと言うわ」と言ったのだった.お金でもめたと言うことで、ジョバンナとアニタを結びつけて考えるように、描かれているのですね.ジーノに置き去りにされた、あの時のジョバンナは、アニタと同じように泣いたのでしょう.

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ジョバンナを置き去りにして列車に乗った一文無しのジーノは、車掌と当然のようにもめた.スペインに救われたジーノだったのだが、宿屋のおばさんと宿代の支払いで、またもめることになった.
『彼女はどうしても家と夫を捨てることができないんだ.貧乏をおそれてる』、ジーノは一緒に逃げることを躊躇ったジョバンナを、こう考えていたらしいけれど、一文無しでは、お金のもめ事ばかり起すことは、分りきった事のはず.

『ベットでは靴を脱いで』、宿のおばさんは戻ってきて、口うるさくこう言った.
『はいて寝るのは死人だけだ』、ジーノはこう答えたのだけど、靴をはいたまま寝るのは死人だけではない.浮浪者もいつもは靴を履いたまま寝ると思える.だからおばさんは、わざわざ靴を脱げと言いに来た.
トラックの荷台で寝ているジーノさん、よくそれで、おっこちないわね、って、聞いたら、ヴィスコンティが、靴を履いたまま寝てるのが、よく解るようにしろって言った、のか、どうか?.それはそれとして、店の中に入ってきたジーノの足に犬がまとわりつくけれど、ジーノのボロ靴を見せたかったらしい.

『彼女はどうしても家と夫を捨てることができないんだ.貧乏をおそれてる』
『(忘れようとしても無理だから)、できる限り遠くへ行くことだ(本当に好きな相手なら、遠くへ行っても忘れないはず.好きな相手のことは自分一人で考えろ)』
『遠くへ、その前に忘れなくちゃ.今は戻りたい気持ちでいっぱいだ.戻れたら逆らわずに彼女の言う通りにする』
『(俺の言ってることが分からない奴だな、同じことを二度言わせるな)、船に乗れ.海の空気が妄執を払ってくれる、(女の居ないところへ行けば、女の事を考えるだろう、たぶん)』

ジーノは靴を履いたまま寝る自分のことを、つまりは浮浪者は死人と同じだと言いながら、そのことを自分で分かっていない.だから、靴を脱いで、ベットの上で寝るだけの金のない男と一緒に、駆け落ちすることを躊躇った、ジョバンナの気持ちも当然分からない.



誰かが靴を履いたまま寝ている.


犬がボロ靴に纏わり付く.


『ベットでは靴を脱いで』、おばさんは戻ってきて言った.


『履いて寝るのは死人だけだ』、ジーノはこう言い返した.


お金のことで、ジョバンナは嘘をついた.


お金でもめた出来事で、ジョバンナはジーノを引き留めたのだけど.....


野宿して鶏を盗んで食べる生活は、死人と大差ない.ジョバンナには無理だった.


分ってと、頼んだのだけど、ジーノはジョバンナを置いて行ってしまった.一人残されたジョバンナは.....


アニタは刑事に、お金でもめたと嘘をつくことにした.


そのアニタも、ジョバンナと同じように、一人置いてきぼりにされて、泣いたのだった.


夫はジョバンナを召使のようにこき使う、冷たい男だった.自分は好きな魚釣りに夢中になって、遊んでばかりで、出かけたら何時帰って来るのやら.
ジョバンナには商売の才能があった.スペインが『金は天下の回り者』と言ったことを言っていたと思うが、ジョバンナはお金をかけてお金を稼ぐ才能に長けていたと言ってよい.それに比べて夫はケチの塊で、使用人に女の子すら雇おうとはしなかった.

さて、既に書いたように、ジーノは好きな女を置き去りにする、冷たい心の男だった.彼は、お金を欲しいジョバンナが自分を騙して夫を殺させたと思い込んでいた.自分は悪い男かもしれないが、ジョバンナはもっと悪い女だと思っていたようだ.
けれども、ジーノが夫を殺したのは、ジーノがジョバンナを欲しかったからに過ぎない.ジョバンナと一緒に暮らしたいから、ジョバンナの言うことに従って、夫を殺してしまったのだ.

今一度書けば、
夫はジョバンナを召使のようにこき使う、ケチで冷たい心の男だった.
ジーノは、好きな女を置き去りにする、冷たい心の男だった.
冷たい心が冷たい心を呼び起こすのだろうか、冷たい心と冷たい心が結びついて、犯罪は行われたのではなかろうか..
貧乏だったジョバンナは、金持ちの男と結婚すれば幸せになれると思い、年寄りでも金持ちの夫と結婚したのだが、相手が冷たい男だったので、幸せにはなれなかった.
そこでジョバンナは、お金がなくてもやっぱり若くて逞しい男の方がと、ジーノと一緒になることを望んだのだけど、けれどもジーノも女を置き去りにする冷たい男で、結局は犯罪を引き起こしてしまい、幸せになれなかった.

お金が有っても無くても関係ない.優しい相手と一緒にならなくては、幸せにはなれない.
一度では分らないかもしれない.だから同じことを二度描いて有るので、それを考えて欲しい.

熊座の淡き星影 - VAGHE STELLE DELL' ORSA - (1965年 イタリア ルキノ・ヴィスコンティ)

2012年12月08日 05時40分11秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
熊座の淡き星影 - VAGHE STELLE DELL' ORSA -
1965年 100分 イタリア

監督  ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
製作  フランコ・クリスタルディ FRANCO CRISTALDI
脚本  スーゾ・チェッキ・ダミーコ SUSO CECCHI D'AMICO
    エンリコ・メディオーリ ENRICO MEDIOLI
    ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
美術  マリオ・ガルブリア MARIO GARBUGLIA
撮影  アルマンド・ナンヌッツィ ARMANDO NANNUZZI

出演
    クラウディア・カルディナーレ CLAUDIA CARDINALE
    ジャン・ソレル JEAN SOREL
    マイケル・クレイグ MICHAEL CRAIG
    レンツォ・リッチ RENZO RICCI
    マリー・ベル MARIE BELL





生まれ故郷の家に戻ってきた彼女、上着を脱いで下着姿になって、この調子なら、きっと、もっと脱いで.....と思って観ていたのに、それまで.
なぜかしら、裸で胸を隠しながら夫と話をしている彼女、今度こそおっぱいが見えそうに思えたのだけど、でも、それまで.
くだらない、ヴィスコンティ、金返せ、と、思ったのだけど.
でも、この映画、描かれたものは、妻の過去を暴く行為だった.夫は、なぜ自分がこんなことをしたのかと恥じた、人の過去を暴くことは、描かれた通りくだらないことである.
夫は妻の過去を知った後も、妻に対する気持ちは変わらなかった.つまり、過去なんて、どうでもいいことだった.

過去の出来事に何時までもこだわっていても、どうにもならない事なのだが、けれども、姉弟は過去の出来事に固執し、近親相姦を正当化しようとしたのだった.彼らは、死んだ父親への異常な愛情によって、母親と義父への憎しみを正当化しようとしたのだけど、しかし、その行為は悲劇を繰り返すだけだった.
過去の出来事は、今となってはどうすることも出来ない事であり、過去に捕らわれて生きることは、くだらないことであったと言える.
事実は事実であり、どうすることも出来ないのだから、そのままほっておけばよい.そうすることしか出来ないのだ.

夏の嵐 - SENSO - (ルキノ・ヴィスコンティ 1954年 119分 イタリア)

2012年12月06日 05時32分03秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
夏の嵐 - SENSO - (1954年 119分 イタリア)

監督  ルキノ・ヴィスコンティ
原作  カミッロ・ボイト
脚本  スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    ルキノ・ヴィスコンティ
撮影  G・R・アルド
    ロバート・クラスカー
出演  アリダ・ヴァリ
    ファーリー・グレンジャー
    マッシモ・ジロッティ
    ハインツ・モーグ
    リナ・モレリ
    クリスチャン・マルカン



勇敢と卑怯
冒頭のオペラは、勇敢を表現したものなのでしょう.そして、オペラが終わるとベネチア市民の観客が一斉に花を投げて、オーストリアの侵略に抗議した.勇敢な行為で映画は始まった.

貴族の伯爵は、保身を図ってオーストリアの将軍にへつらう卑怯な人間で、その妻もまた、勇敢な従兄弟を救うためと偽って、敵軍の将校へ近づいて行き、美男子の将校を愛人にしようとした卑怯な女だった.

戦争のシーンは非常に断片的な描き方でなのだけど、例えば、この道を通りたいと言うと、ラッパの合図で身を潜めていた両軍の兵士が一斉に姿を現し、撃ち合いを始めたその真ん中の道を馬車で駆け抜ける、勇敢な行為が描かれた.

卑怯、淫売の女は美男子の将校に入れあげ、結局は預かった軍資金を横領して、敵軍の将校に貢いでしまった.将校はその金で、医者を買収して兵役を逃れ、そして若い女を買って優雅に暮らしていた.

勇敢な戦士のための軍資金、その金を横領すると言う卑怯、勇敢と卑怯がお金によって結びついて描かれる.
勇敢が、お金で買えない行為であるならば、卑怯とは、お金で買えないものを買おうとする行為、お金で買ってはならないものを買う行為である.


ベネチア人としての義務を果す、勇敢な行為と言いたかったのであろうか.


密告は殺人であった.密告は恥ずべき行為、卑怯な行為であった.

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この映画は、テクニカラーのカラー作品で、アメリカから戻ってきたジャン・ルノワールが、直接フランスへ帰らず、テクニカラーの技術者を連れてイタリアにやってきました.テクニカラーは3色分解した元版から、転染と言う技法でプリントを作る特殊なものなので、最初は撮影には技術者の指導が必要であったのだと思われます.
ジャン・ルノワールは、アメリカに渡る前は、イタリアでヴィスコンティを助監督として『トスカ』を撮っていたのですが、一巻目を撮ったところで、イタリアが第二次世界大戦に参戦し、アメリカに逃れることになりました.
ヒットラーの最も嫌いな映画『大いなる幻影』を撮っていたジャン・ルノワールは、迫害を恐れてアメリカへ渡った、そうした事情を考えると、イタリアへ戻ってきたと言っていいのかも知れません.イタリアのチネチッタで、ジャン・ルノワールは2本目のカラー作品『黄金の馬車』を、ヴィスコンティは最初のカラー作品『夏の嵐』を、一緒に撮っています.

ベニスに死す - MORTE A VENEZIA - (ルキノ・ヴィスコンティ 1971年 131分 イタリア/フランス)

2012年12月05日 22時08分06秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
ベニスに死す - MORTE A VENEZIA - (1971年 131分 イタリア/フランス)

監督    ルキノ・ヴィスコンティ
製作    ルキノ・ヴィスコンティ
製作総指揮 マリオ・ガロ
      ロバート・ゴードン・エドワーズ
原作    トーマス・マン
脚本    ルキノ・ヴィスコンティ
      ニコラ・バダルッコ
撮影    パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽    グスタフ・マーラー

出演    ダーク・ボガード
      ビョルン・アンドレセン
      シルヴァーナ・マンガーノ
      ロモロ・ヴァリ
      マーク・バーンズ
      ノラ・リッチ
      マリサ・ベレンソン
      キャロル・アンドレ


美少年と、醜いホモのお爺さん
美少年が、ベニスの美しい街並みを現すとすれば、醜いホモのお爺さんが化粧をする好意は行為は、ベニスの当局者は伝染病の発生を隠そうとした、その行為を現している.

この映画で描かれた化粧とは、美しいものをより美しく見せる行為ではなく、自分の都合の悪い部分を隠そうとする行為だった.主人公自身がベニスに向かう船で、化粧をした老人を見て、醜くて気持ち悪いと思ったのだけど、彼はその気持ち悪い化粧を真似たのだった.

美少年にとって、ホモのお爺さんはコレラ菌と変わらない.勝手に死んでくれて良かった、良かった.ついでだから伝染病の発生を隠した、街の役所の人間も、コレラにかかって死んでしまえ.

人間て本当に愚かなもの.トーマスマンとヴィスコンティ、二人の名前によって映画を考えてしまい、描かれた事実を素直に理解しようとはしないらしい.

制作者はヴィスコンティである.そりゃそうだ、正気の人間が、こんな映画にお金を出すはずがない.
伝染病の発生を隠そうとした、ベニスの当局者の行為は、聞くに耐えかねる醜い行為だったので、観るに耐えかねる醜い映画で、ヴィスコンティは表現した.