『赤い砂漠』 -IL DESERTO ROSSO-(1964年 116分 イタリア)
監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
製作 アントニオ・チェルヴィ
脚本 ミケランジェロ・アントニオーニ
トニーノ・グエッラ
撮影 カルロ・ディ・パルマ
音楽 ジョヴァンニ・フスコ
出演
モニカ・ヴィッティ
リチャード・ハリス
カルロ・キオネッティ
ゼニア・ヴァルデリ
リタ・ルノワール
-異常な出来事を、異常な出来事と理解すること-
ピントをぼかして映し出される工場群、煙突から天空に向かって吹き上げる炎、この時点で赤い砂漠とは、人々の暮らす環境を、公害で汚染された環境を意味していることが、誰にでも薄々感じられることと思います.
映画に入る前に、アントニオー二がこの映画を撮るに至った経緯を、私なりに簡単にまとめておこうと思います.
沿革1.公害、及び公害に対する認識
日本では水俣病、ヨーロッパではライン河がどぶ河になり、北アメリカの五大湖では釣った魚を食べることができなくなった.公害がどんどん深刻さを増していったのはこの映画の撮られた頃.けれども、高度成長の直中にあって経済成長が優先され、公害対策、公害防止などという考えは、人々の意識に存在しないと言わなければならなかった.(非常に薄い問題意識しかなかった)
沿革2.芸術家としての使命感
公害そのもの、その実態を描き問題提起するのは、新聞でありテレビであり、そうしたメディアの役目である.映画の役目、芸術の役目とはそうした問題にかかわる人々の心を描くことにある、アントニオーニはこう考えたはず.そのために、前衛的表現を用い全体をオブジェで構成した.
さて、映画に入りましょう.この映画の場合、順序立てて物語を追う作品ではありません.書きやすいように順序は前後しますが、映画全体を捉えるこに注視します.
異常と人間性.結論を先に書けば、公害という異常な出来事に対してどの様に対処すべきか、そこに置ける人間性を問いただすことを目的とした映画である.その過程において、あるいはその目的のために、変(異常を想わせる)な人々が描かれる、こう考えると、映画全体がなんとなく見えてくるのでは.
人間性.「あなた、右?、左?」、ジュリアーナに聞かれてコラドは、「ぼくは人間性を信じている」と答えるのですが、この言葉を、映画全体を修飾する言葉として拾い上げておきましょう.公害に対する考えは思想、信条の問題ではない.イデオロギーの問題ではなく人間性の問題であると言ったのです.
変な人、あるいは変なやつら、人間性としてこう想わせるような色々な人間が、ジュリアーナの回りに描かれる.海辺の小屋の宴会.変な出来事.SEXに関する人間性を描いた出来事、としておきましょうか.
子供の玩具.ジュリアーナが異常をきたした原因が夫婦関係にあるのが、なんとなく窺い知れると言ってよいでしょう.子供の玩具、時代の最先端と言ってよい玩具ばかりなのですが、けれども幼稚園の年頃の子供の心を育てる玩具であるかと言えば、何か違うみたいに想えます.これらの玩具は父親が揃えた物と考えるのが自然、他方、子供が病気を装って母親にねだったのは、昔話でした.夫と妻の子供の教育に対する人間性の違いが、心のすれ違いの原因が描かれているみたい.
夫とコラド、この二人のジュリアーナとの関わりがやはり一番重要.夫のジュリアーナに対する態度、ジュリアーナに対する理解は冷めた感じを受けます.それに対してコラドは、ジュリアーナを理解しよう、なんとか理解しようと努めているのですね.ジュリアーナの病気、つまり異常な出来事に対しての理解にかかわる人間性を、夫とコラドによって描いています.
海辺で戯れる少女の挿話もオブジェですね.人間嫌いの少女は自然と戯れて過ごすのが好き.その回りに不思議な出来事が起きる.歌声がするが姿は見えない.どこからともなく聞こえてくる歌声は、自然が彼女を呼んでいる、と言ってよいのでは.
「小さな岩たちはまるで生き物のようだった.そして、その歌声はとっても優しかったわ」.映画全体がオブジェ、全体が異常を示すならば、その中のこのオブジェは、正常を示すと言ってよいのでしょう.
心を病んだジュリアーナが、公害そのものを、あるいは、公害を発生させ放置する、人間の病んだ心を現している.
ラストシーン.煙突を指さして「煙が黄色いね」、と、子供が聞く.「毒だからよ」とジュリアーナ.「鳥は知ってるから飛ばないわ」
ジュリアーナは医者から病気のことは考えるなと、病気を忘れれば治ると言われたみたい.忘れれば治る病気を忘れられない苦しみ、それが逆説的に示すものは、毒と知りつつも公害をまき散らし続ける、分かっていても直そうとしない、人間の社会全体の愚かさと言ってよいのでしょう.
監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
製作 アントニオ・チェルヴィ
脚本 ミケランジェロ・アントニオーニ
トニーノ・グエッラ
撮影 カルロ・ディ・パルマ
音楽 ジョヴァンニ・フスコ
出演
モニカ・ヴィッティ
リチャード・ハリス
カルロ・キオネッティ
ゼニア・ヴァルデリ
リタ・ルノワール
-異常な出来事を、異常な出来事と理解すること-
ピントをぼかして映し出される工場群、煙突から天空に向かって吹き上げる炎、この時点で赤い砂漠とは、人々の暮らす環境を、公害で汚染された環境を意味していることが、誰にでも薄々感じられることと思います.
映画に入る前に、アントニオー二がこの映画を撮るに至った経緯を、私なりに簡単にまとめておこうと思います.
沿革1.公害、及び公害に対する認識
日本では水俣病、ヨーロッパではライン河がどぶ河になり、北アメリカの五大湖では釣った魚を食べることができなくなった.公害がどんどん深刻さを増していったのはこの映画の撮られた頃.けれども、高度成長の直中にあって経済成長が優先され、公害対策、公害防止などという考えは、人々の意識に存在しないと言わなければならなかった.(非常に薄い問題意識しかなかった)
沿革2.芸術家としての使命感
公害そのもの、その実態を描き問題提起するのは、新聞でありテレビであり、そうしたメディアの役目である.映画の役目、芸術の役目とはそうした問題にかかわる人々の心を描くことにある、アントニオーニはこう考えたはず.そのために、前衛的表現を用い全体をオブジェで構成した.
さて、映画に入りましょう.この映画の場合、順序立てて物語を追う作品ではありません.書きやすいように順序は前後しますが、映画全体を捉えるこに注視します.
異常と人間性.結論を先に書けば、公害という異常な出来事に対してどの様に対処すべきか、そこに置ける人間性を問いただすことを目的とした映画である.その過程において、あるいはその目的のために、変(異常を想わせる)な人々が描かれる、こう考えると、映画全体がなんとなく見えてくるのでは.
人間性.「あなた、右?、左?」、ジュリアーナに聞かれてコラドは、「ぼくは人間性を信じている」と答えるのですが、この言葉を、映画全体を修飾する言葉として拾い上げておきましょう.公害に対する考えは思想、信条の問題ではない.イデオロギーの問題ではなく人間性の問題であると言ったのです.
変な人、あるいは変なやつら、人間性としてこう想わせるような色々な人間が、ジュリアーナの回りに描かれる.海辺の小屋の宴会.変な出来事.SEXに関する人間性を描いた出来事、としておきましょうか.
子供の玩具.ジュリアーナが異常をきたした原因が夫婦関係にあるのが、なんとなく窺い知れると言ってよいでしょう.子供の玩具、時代の最先端と言ってよい玩具ばかりなのですが、けれども幼稚園の年頃の子供の心を育てる玩具であるかと言えば、何か違うみたいに想えます.これらの玩具は父親が揃えた物と考えるのが自然、他方、子供が病気を装って母親にねだったのは、昔話でした.夫と妻の子供の教育に対する人間性の違いが、心のすれ違いの原因が描かれているみたい.
夫とコラド、この二人のジュリアーナとの関わりがやはり一番重要.夫のジュリアーナに対する態度、ジュリアーナに対する理解は冷めた感じを受けます.それに対してコラドは、ジュリアーナを理解しよう、なんとか理解しようと努めているのですね.ジュリアーナの病気、つまり異常な出来事に対しての理解にかかわる人間性を、夫とコラドによって描いています.
海辺で戯れる少女の挿話もオブジェですね.人間嫌いの少女は自然と戯れて過ごすのが好き.その回りに不思議な出来事が起きる.歌声がするが姿は見えない.どこからともなく聞こえてくる歌声は、自然が彼女を呼んでいる、と言ってよいのでは.
「小さな岩たちはまるで生き物のようだった.そして、その歌声はとっても優しかったわ」.映画全体がオブジェ、全体が異常を示すならば、その中のこのオブジェは、正常を示すと言ってよいのでしょう.
心を病んだジュリアーナが、公害そのものを、あるいは、公害を発生させ放置する、人間の病んだ心を現している.
ラストシーン.煙突を指さして「煙が黄色いね」、と、子供が聞く.「毒だからよ」とジュリアーナ.「鳥は知ってるから飛ばないわ」
ジュリアーナは医者から病気のことは考えるなと、病気を忘れれば治ると言われたみたい.忘れれば治る病気を忘れられない苦しみ、それが逆説的に示すものは、毒と知りつつも公害をまき散らし続ける、分かっていても直そうとしない、人間の社会全体の愚かさと言ってよいのでしょう.