慶応3年12月江戸薩摩藩邸焼き討ちがおこり、その報が大坂にもたらされたことで徳川慶喜の率兵上京が決定し、その先兵とこれを阻止しようとする薩長軍との間で戦いが始まった(鳥羽・伏見の戦い)のですが、この薩摩藩邸焼き討ちの報をもたらしたのが、大目付滝川播磨守(滝川具挙)と勘定奉行並小野友五郎(小野内膳正)と言われてきました。しかし、藤井哲博氏は昭和60年、『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書)でこれを否定しました。しかし、すでに刊行後40年近くなろうとしますが、いまだに浸透していないように感じます。
それは、滝川と小野の上坂に関して言及している書が少ないことが原因となっていると思います。薩摩藩邸焼き討ち情報が大坂にもたらされた日も28日とするものが多いのですが、その根拠を示している資料は以外と少ないのも事実です。
松浦玲氏は『徳川の幕末』(筑摩選書、令和2年)で、『徳川慶喜公伝』を引きながら「管見の限りでは船と人物に整合性のあるものがない」と、問題点を指摘しています。
それは、滝川と小野の上坂に関して言及している書が少ないことが原因となっていると思います。薩摩藩邸焼き討ち情報が大坂にもたらされた日も28日とするものが多いのですが、その根拠を示している資料は以外と少ないのも事実です。
松浦玲氏は『徳川の幕末』(筑摩選書、令和2年)で、『徳川慶喜公伝』を引きながら「管見の限りでは船と人物に整合性のあるものがない」と、問題点を指摘しています。