仏教は6世紀頃日本に伝来したらしい。
『神仏習合』…という分かったような、解らないような言葉で古来の『神道』と新参の『仏教』が合流した。
その詳しい経緯(いきさつ)は知らないが、馬骨流解釈では『合流』も無理はなく、なるべくしてなったといえる。
しかし、そういう風に『神道』と『仏教』を観ることが出来るようになったのは還暦の後だろうか。
・・・などという前置きはそれくらいで『柏手』だが
ここ最近、柏手というか拍手というか『手を叩く音』の凄いことに私は注目している。
というのは、一歩街に出るとすれ違う若者たちが、『携帯』を凝視しながら歩いている風景に関係している。
そういう私も、歩いている時以外は携帯を覗いているが…、問題は『歩きながら携帯』にあるように思う。
『自分の世界に浸りきって歩く』事はその本人にとっても危険であるが、より問題なのは他人への配慮が全く無くなり
自分の周りで何が起こっているか『現状把握』が出来なくても平気でいられるメンタルの日常化・・・だ。
その傾向というのは、『スマートフォン』の出現で絶望的に飛躍し、『いま・ここに生きる』という原点から
人を遠ざける負の修行のように見える。
『柏手』は使う相手によっては、臨済禅師の『一喝』に匹敵し、人をして目を覚ます『力』を秘めているだろう。
携帯を凝視して、前方にいる私が全く視界に入っていないように直進する者がいれば、私は『柏手』を打つ!
柏手は『場』を清め、自分自身が『いま・ここに生きる』ことを確認させる・・・
などという『崇高な働き』作用が『柏手』にあるなど気にもしない者達は、一瞬驚かされた事に苛立つ・・・だけであろうか。
これを相方に話すと、彼女は本当に柏手を打つに違いない。私は打つことは打つが心の中で打つのみである・・・
Mariell Blancさん Galerie L'Espace81 Morgesにて Oct. 23まで
今日街中を歩いていると、ギャラリーの窓越しから観ると何だろう?と思う作品が展示してあり覗いてみた。
近寄らなければ解らない『顔x顔』の顔ばかりが画面びっしりに描かれている作品であった。
ローザンヌには『アール・ブリュット』美術館があり、精神を少し病んでいる?(と言っていいかどうか問題だが)人々の作品
にはこういった作品が多いが、ギャラリーにいた作者のマリエル・ブロンさんは若くて美しい女性で、作品とのギャップが不思議。
この作品のように、画面に隙間が全く無い…状態が病んでいるとすれば、『柏手』はそこに『間』を開ける働きがあるように思う。
柏手で 清まる中を 生きてゆけ 携帯持って 心固めず ・・・ 一撮
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