禅宗の原理と言われるものに、『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』の4つがあるなか
私にとって最もわかりにくいと思えたのが『直指人心』であった。
しかし今思い返せば、そのことは『坐禅の初心者』の時期にイヤというほど長期に渡り体験してきた事の中にこそ
『直指人心』の入り口に立ってウロウロさまよっていた自分に気がつく。
『坐禅』こそ端的に『直指人心』を示しているというのは、坐禅という人間にとって物凄く不自然な行為・・・
一定時間、身体を『坐』の形に静止することによって、『心』が動転する様を直視する自分を体験させる事にあるからだ。
もし、誰かが私に『坐禅とは何か』と尋ねたら
『急ブレーキをかけた車に乗っている自分』と答えるだろう。
その心は?・・・
『車中、私の全身が全力で前に突っ込むように、私の頭の中の全妄想が止めどなくドッと吹き出るのを観る…』からである。
人間は動物の一種とはよく言ったもので、私達は絶えず動いて、しかもそのことに疑念をはさまない生き物である。
特に『心』は眠っている間も動いていて一時もじっとしていない。まず、この事実に気付くことが『直指人心』の入門であったのだ。
坐禅初心者の頃、なんでこう妄想が湧くのか?と思ったが、教えられた吐く息を数える『数息観』に打ち込んでも、気がついたら
いつの間にか妄想の中にいた…というようなことがかなり長期間続いていた。
さほどに身心を『制止、制御』することは大変難しいことで、『難しく、それが出来ない自分』を意識した時、
自分の弱さを心から解り、それが人間としての『謙虚さ』に自分を導いた・・・ことは間違いない。
(*謙虚さに気付く…という副作用は、郷里(サトリ)への道標として必須要素であったかも… )
私達は、『ブレーキのない車』に乗っているようなものではないだろうか?
仮のブレーキとして『学問』や自己を様々に規定する社会での『地位』、『親子の役目』などいろいろあるが
そういった装飾的な『仮ブレーキ』ではない、本物のブレーキ『坐禅による仏心』に眼を向けることが
禅の『直指人心』の教えなのだと思う。
先日、2022年10月22日のブログ記事一『無期懲役囚の話』 を書いたが、自己を制する『ブレーキ』、たとえ『仮のブレーキ』であっても
それがあれば防げたかもしれない・・・と思うと切なく、またそういった教えに一人でも多く幼いうちに接することの大切さを思う。
殺す相手を人と思わないようにすることです。