茂木健一郎著『クオリアと人工意識』・・・読書中であるが、だんだん難しく、次々と出てくる用語が理解できているのか危ぶまれるなか
『意識』には志向性があるのか、無いのか?・・・という問題提議がなされていて、科学的には未だに立証出来ていない(?)らしい。
科学的にはそうかもしれないが、仏教的には釈尊が悟った瞬間から『志向性』が明確であったように私には観える。が、
それってどうなの? と、思ってしまった。 だって釈尊によって示された『人間の意識の志向性』に対して、2500年もの長い間、
誰も疑義を唱えなかったことに対し、今頃になって科学は人間にとって最も根本的な『意識』に疑問を投げかけ始めたのか?
『AI』に着手することで初めて学者の間で、『意識の問題』が意識にのぼった。
仏教では『三法印』と言って、『諸行無常』→『諸法無我』→『涅槃寂静』の流れで『意識の志向性』があることは明確でそれを『仏道』と言っている。
それで覚醒した菩薩は『志向性』の権化となり、『衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道無上誓願成』の実現に一心不乱になるさまは
例えは悪いが、まるで『ゾンビ―』・・・。噛まれたら最後、誰かれ構わずゾンビー化に全力を尽くす一途さは『菩薩ゾンビー』と言えないことはない。
そこには、じつは『志向性』の大転換がありそれを『Z (ゼット)』とした場合、ブラッド・ピットのゾンビー映画の傑作『World war Z』を想起するが
その典型的菩薩が『常不軽菩薩』であろう。
会う人ごとに、合掌して『あなたはいづれ仏様となる人で、私は敬いこそすれ軽視することはありません・・・』と、言ったというのだから・・・。
ところで、志向性の『志』の字について考察した時、『超Z世代』の馬骨的には『 +・ ― =0 の心』・・・つまり、先んず『0(無)』への志向の果、
『観自在』の覚醒までを志向性とし、『涅槃寂静』の正体ではなかろうか。
『志』の字を発明した中国の漢字創作家兼仏教徒は、まさかそのずーっと将来に『士』を『+とー』で『ゼロ(無)』と解読されるとは
予想したであろうか? いや、そんなことなど織り込み済みのメッセージとしてこの字は創作されたのだ・・・と考えずにはおれない馬骨であるが。
チューリップ祭りが始まりはじめた頃の写真。今日辺りはだいぶ花も散ったようであった。
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