拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『子宝』を観つめて

2024年08月11日 | 東洋自分なり研究所

  子宝を授からなかった私が、子宝を云々するのは、どうかと思うが・・・

  子供が『悟り』の当体とわかれば、私の子供を観る眼が尋常ではないことを、わかってもらえるだろうか?

  禅なんかが『悟り』・・・とか言うと、我関ぜず…と、あさっての方を向いてしまう人々も、自分自身が子供時代を経てきた事や

  『子宝』を授かった貴重な体験・・・そのものが『禅』でいうところの『悟り』そのものであった事に『意』を向けない間抜けな東洋人でいる事は

  素晴らしい日本文化という『宝』というか、特に『子宝』の持ち腐れであろう・・・と思う今日此頃。

  かくいう私も、『子宝』が『悟りの当体』であると、しっかり意識したのは、やはり定年退職者となって、ゆっくり色々なことを吟味する

  時間を持てたことが、理由であろうか。

  以前より『 幼子が しだいしだいに知恵つけて 仏に遠く なるぞ悲しき 』という詠み人知らずの短歌に注目はしていたが

  はたして、この短歌がもしかして私にとって公案(禅問答)として、心の奥底で、ディープラーニングしていたのであろう。

  『子宝』という言葉の真意が、ある日ゆるがない確信として『子宝』であると湧いてきた気がする。

  そう思ってみれば、『子宝』というなんとなく古臭い言葉が、ピカピカ新品の価値観、我々の祖先が未来の子孫の為に編み出し、

  日本伝統文化として延々と紡ぎ伝えてきた『宝』としての『悟り』が、『子』に宿っている事実を『子宝』という言葉に込めた真意に目覚めるだろう。

  子供は親に『観』を求める生物で、その故に『親』には『見』があるが、じつは子供が親に求める『観』には、親自身が『子の持つ宝』

  つまり『悟りの当体』をも観つめる事を要求している・・・のだ。その意味での『親』の『見』でもあるのだと思う。

  禅では『見性成仏』ともいうからね。

                      

                       馬骨の幼い時・・・ 幼子が しだい次第に 知恵つけて ほとけに遠く なぬぞ悲しき

  



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