拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『 一言居士 』

2024年07月22日 | 東洋自分なり研究所

  考えてみると、私が禅修行した道場が円覚寺の『居士林』という所で、居士(男性)、禅子(女性)さんという呼び名も

  道場を仕切る役を拝命された時(直日、侍者、典座など)は、修行中日常的に使う単語であったから、私も『居士』という

  わけのわからない、仏壇にある位牌で見かけたことのある、へんてこりんな名称『居士』を何の抵抗もなく使っていた。

 

  『居士』を大辞泉で調べると、『  在家の男子であって、仏教に帰依した者。』とあり、

  私はいつの間にか仏教に帰依した者・・・になっていたが、今となっては『ま、いいか・・・』の心境ではある。

 

  その『居士』を使った四文字熟語『一言居士』・・・ほぼ使う人もいないであろうし、使う場面もなく、死語と言ってもいいような

  言葉であるが、私がこのブログで『禅』について何か書くときには、その道のプロである『禅僧』に対して私自身は『居士』であるという意識が

  心の片隅に確固としてあり、そこに私の『色』としての特徴を活かす意義があるように感じるところでもある。

 

  『一言居士』・・・辞書によると 『何かにつけ、自分の意見をひとことでも言わなければすまない性格の人』と言うような事で

  現代感覚では、ウザく、面倒な人というネガティブな人物像を言い表す言葉のようだ。

  私も、禅について何だかんだ自分の経験則から気が付いた事などを書いているが、このブログを読まれる方の中には、

  私をして『一言居士』と思われる方もいるのだろうか・・・。

 

  私にとっては『一言居士』という表現には重いものがあり、そもそもは『維摩の一黙、雷の如し』で有名な『維摩経』(大乗仏教初期の経典)

  の主人公『維摩(ゆいま)』居士に由来していると勝手に思っている。そして、維摩の雷如き一黙こそは維摩居士のまさに『一言』であったろう。

 

  釈尊の死後、約500年して大乗仏教が起こり、『般若経・ 維摩経 ・法華経 ・華厳経・ 大無量寿経・ 涅槃経・ 梵網経 ・大日経 』・・・という

  錚々たる経典が創り出されたなか、居士を主人公にした経典『維摩経』の存在の意義は人類の将来を見越したようなスケールを感じさせる素晴らしい経典だ。

  この経典の中で、名だたる菩薩や釈尊の直弟子等を、居士の分際で上からの目線でギャフンと言わせ、居士と出家の違いなどまったく感じさせない教えは

  まさに当時の『小乗』にたいする『大乗仏教』の在り方を時空を超えて喧伝しているようで凄い。

 

  そしてもう一人、凄い居士は『スズキ・大拙』居士だ。 彼はあたかも、未来世の弥勒菩薩から派遣されたターミネーターの如く20世紀に出現し

  日本のみならず、世界に『禅・仏教』在ることを知らしめた居士で、『AI時代』突入前夜に『禅・Zen』のあることを人類に知らしめに来たのだ。

  そして彼の一言はといえば『衆生無辺誓願度』に他ならない。

 

             

              居士林にて、1987年頃の馬骨(右から3人目)。この頃は『一言』どころか『永久無言』を申しつかった気分であった。

  



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