拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『 摩訶般若数息観心経 』

2023年08月13日 | 東洋自分なり研究所

  Youtubeなどで、スピリチュアル系の人達の動画を見ると、比較的若い頃からスピリチュアルに興味を持っていた・・・という話をよく聞くが

  そういった意味では、私の場合30歳になるまでその気(け)が全く無かったことを思うと、よくぞ観音菩薩の術中にまんまと陥ったものよ・・・

  と、思わずにいられない。 

  よりによって私のような者が、『禅』や『鈴木大拙』、『釈尊』や『達磨大師』らと仏縁によって結ばれた事が不思議でしょうがないのだ。

 

  仏教の中でも『無我』ということをもっとも激しく究明する『禅』だからこそだと思うのだが、良く言えば『観自在』、悪く言えば『味噌糞混然』

  と思われるほど物事にとらわれない自由な発想は、私の居士という寺にも属さないフリーランサー『馬骨』の立場であることも大きいだろう。

 

  そういった立場であることを踏まえた上で、禅修行を振り返ると、私が最も打ち込んだ『お経』はなんと『摩訶般若数息観心経』ではなかったかとふと思ったのだ。

  私の修行期間をおよそ10年間とみると、前半5年間は『数息観』に打ち込み、後半5年は『公案』に打ち込んだといえる。

  北鎌倉、円覚寺の境内にある居士林へ通い始めた時教えられた、坐禅中吐く息を一から十まで数える坐法『数息観』にひたすら打ち込み、5年経った時

  私は禅を卒業したつもりで海外へでかけたが、結局再び居士林にもどり、老師に参禅する事になった。

 

  私は今でも、高い階段を登る時などつい無意識のうちにその『数』を数えてしまう。

  朝の体操も中国語の数字イー・アー・サン・スウと数えるし、グラントを6周走る時も周数を数え、懸垂するときも回数を数える。

 

  私にとって『数』を数えるのは若き日に培った『数息観』で『妄想や雑念』をきれいにぶった斬る『金剛刀』の役割を果たすものであるとき

  40〜60分の坐禅中、吐く息を1〜10まで数え、それを延々と繰り返すのであるが、それって当時は思いもしなかったが、

  『摩訶般若数息観心経』とも言える『お経』を唱える事ではなかったかと思うのだ。 もちろんそんな『お経』など存在しないが、

  この実にシンプルな『数息観』こそ、自己を『無我』に至らせ、それが『丹田』を介しているとき、血液循環の面から機能を最高度に高め

  心身の健康に多大なる貢献をしている事実を思えばこの『数息観』こそ『摩訶般若数息観心経』と称するに値する『お経』であろう。

  そして、その『数息』がいつの日か、『0』の『無』へと禅者を導くのである。

            

                夏夜のモルジュ公園では美しい歌声が響いていた・・・



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