ケネディ暗殺事件と言っても殆どの人が、当時のことを忘れてしまっているかも知れないので、自分の記憶で、知っている範囲を書いてみることにする。
「大統領選挙」
当時、現職の副大統領リチャード・ニクソンと、無名の新人ジョン・F・ケネディの対決。
今でこそニクソンは、嘘つきだの、策士だのと言われているが、当時はまったく違っていた。
当時の大統領はドワイト・D・アイゼンハワー。
第二次世界大戦の英雄で元帥。ヨーロッパ連合軍最高司令官。
辞任演説でさえもが歴史に残る、有名な『軍産複合体』批判演説である。
当時、世界の金の8割を所有して、アメリカが一番輝いていた時代の大統領、アイゼンハワー。
その副大統領に39歳の若さで就任し、当時2期目のニクソンは飛ぶ鳥も落とす勢い。
討論会でも、その豊富な知識と経験で、ケネディを圧倒する。ラジオで二人の討論を聞いた有権者は、勿論ニクソンを選んだ。
ところが、なんと、テレビの視聴者はケネディを選ぶ。
何しろニクソンは貧乏人の生まれで悪人顔。
対するケネディは金持ちの生まれで、いかにも品の良い坊っちゃん顔。見た目が勝敗を分けた。
此の辺のメカニズムは、拙ブログ2月9日の『人は見ためが9割・メラビアンの法則』を参照下さい。
日本でも、見た目が一寸格好よいだけで、今までの政治家と違うと勘違いして変態の○モの小泉純一郎を首相に選んだ例もある。
まあしかし、同じ様な金持ちの坊っちゃんでも、人相も、言動も、思想さえも下品、下劣な、麻生太郎のような例も有り、なにごとも一概には言えないが。
実力は無くても何とか、悪質な選挙違反の噂もあったが、ほんのわずかの僅差でケネディが大統領に当選する。
『大統領就任』
ケネディは1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。
しかし就任の直前1月3日に、前大統領がキューバ経済制裁と、対キューバ国交断絶というトンデモナイ置き土産を残す。
これは、共和党パパ・ブッシュが辞任直前にソマリアに派兵して、民主党クリントンに難問を残したのに似ている。
当時のカストロは、今と違ってアメリカとの友好関係を模索していたし、アメリカ政府も当初はキューバ革命政府を黙認していた。
何しろ前バティスタ政権が酷すぎる。腐敗の極に達していて、アメリカのマフィアや大企業と結託した、麻薬ビジネスがアメリカ南部、フロリダやニューォリンズに飛び火して、最早座視できない有様になっていた。
キューバ経済封鎖がその後、長くアメリカの外交を縛り、半世紀近く近隣諸国にまで影響するとは、この時アイゼンハワーは判っていたのだろうか。
『ピッグス湾事件』
大統領就任三ヶ月目の1961年4月15日に、偽装したアメリカ軍がキューバ軍基地を空襲、続いて17日にキューバのコチーノス湾(アメリカ側の呼称はピッグズ湾)にCIAに雇われた旧政府軍人1500人が上陸を開始した。
CIAの計画したとされる、このまったく成功する見込みの無い、無謀なキューバ進攻は二日ほどで進攻部隊が全滅して終了する。
この計画が、成功する見込みはあったのか。?どう考えても、全く在りません。!
当時、キューバ国民に完全に見放されたバティスタ独裁政権の軍隊を、いくら金をかけようが、幾等CIAが後ろに控えていようが、もともと勝てると考える方がどうかしている。
このCIAの計画とは、一体なんだったのか。?
本気になってカストロ政権転覆と、バティスタ復活を考えていたのか。?
亡命キューバ人の単なるガス抜きかも知れないが、二年前に完全敗北して逃亡した旧政府軍が、革命軍に絶対に勝てないことぐらいは、世界一の情報機関であるCIAが、最初から気が付かない筈が無い。
当時、腐敗したキューバの旧政府関係者や麻薬業者、マフィア、がマイアミやニューォリンズに大量に流入して、現地の治安が極度に悪化していた。
ピッグス湾事件は失敗したが、危険な武装集団を大量廃棄処分出来たので、結果的には、CIAの成功と考える事も、出来なくは無い。
『キューバ危機』
1962年10月14日、アメリカ空軍機によるキューバ軍施設の偵察活動中にキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した。
10月22日午後、米国によるキューバ海上封鎖措置を発表。
ソ連との全面核戦争も辞さないと言う『人類滅亡』をかけた、世に言う「キューバ危機」、狂気のチキンレースを、ケネディは始めてしまう。
チキンレースに勝つためには、正気は邪魔で、常識とか良識が少しでも有った方が負けると言う法則がある。
ソ連のフルシチョフに少しだけ、良識が有ったと見えて、ソ連が屈服して人類滅亡だけは、寸前で食い止められた。
今のアメリカの歴史教科書では、ケネディの毅然とした態度が勝利を呼び、正義がかなえられたと教えている。(作る会のアホ教科書の方が、よっぽどマトモ?)
イラクのフセインも毅然としていた。旧ユーゴのミロセビッチも毅然としていた。
日本の東条首相も毅然としていたが、日本中を焼け野原にした挙句に大日本帝国を崩壊させている。
フルシチョフが肝心な時に、毅然としていなかったお陰で、我々人類は今でも文明的な生活を送っていられる。
今は亡き、優柔不断で根性なしだったが、正気が少しはあったフルシチョフに感謝。
『運命の1963年11月22日』
ケネディは遊説先のキューバ亡命組織の多いニューォリンズに近い危険が予測された、テキサス州ダラスの市内をオープンカーでのパレード中に狙撃され、暗殺される。
まさに、その日行われた、初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも暗殺場面が同時中継放送され大騒ぎとなる。
ここでもキューバとの、不思議な因縁が暗殺事件に色を添える。
即座に、地元ダラス市警に映画を観劇中に逮捕された、容疑者のオズワルド。
二日後に、その警察署の中で組織犯罪準構成員ジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。
当時のマスコミ発表によると、オズワルドは、
1)元海兵隊員で、射撃の名手。
2)ソ連に亡命して、ロシア人と結婚。
3)ニューォリンズでカストロ支持のビラを撒き、亡命キューバ人といざこざを起こして新聞種になる。
4)暗殺直前にメキシコのキューバ大使館で旅券(亡命?)申請をしていた。
5)暗殺で使用されたカルカノライフルを通信販売で購入。
6)カルカノ銃と左翼雑誌を両手に持って記念撮影していた狂信的左翼過激派。
7)ケネディ暗殺直後にパトロール警官を射殺して映画館に無賃入場。
当時の平均的アメリカ人たちとっては、これ以上無いほどの「理想的犯人像」であるオズワルド。
犯行を疑うものは、唯の一人もいなかった。
(続く)
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