自然豊かな静かな丘の上に暮らす友人は、「何か曲をかけようか」と言った。
彼女の家は広い。私はてっきり窓際にあるオーディオの方へ彼女が行くものと思っていたのだが、違った。
彼女は一言「アレクサ、藤井風の曲かけて」
と言い、それに応えてアレクサは「〇〇から藤井風の曲をかけます」みたいな事を言って、曲が始まった。
アレクサを起動させるのを見たのは、初めてではなかった。
関東圏に住む娘の家に遊びに行った時、娘もアレクサを使っていた。
「こんな事も出来るよ」とアレクサと“しりとり”をして、私も参加して遊んだのだった。
それがほぼ2年前の事。
友人がアレクサを普通の日常の事として使っている事に、軽いショックを受けた。それは、「時代はついにここまで来たのか」という驚きだった。
娘とは違い、ほぼ私と同世代の友人が最先端技術(アレクサが世に出て久しいけれど)を気軽に利用していたことが、「近未来」という時代を突如目の前にした様な気がしたのだ。
子供の頃に見た少年雑誌の巻頭に、カラーで描かれた未来の生活のイラストは、テレビ電話であったり、ロボットとの生活であったり、それらは大いに夢を抱かせるものだった。
それから半世紀以上の時が流れ、子供の頃に見た未来のイラストは、着々と目の前の現実になっている。
特に友人のアレクサを利用する姿を見て、巻頭カラーのページにワクワクしていた頃の自分から、その一つが実現した現在へ一気にワープしたような錯覚を覚えた。
そんなSF的な事を感じる一方で、「使役」ということについてもちょっと考えが及んだ。
通常、物事を人に頼むときは「すまないけれど」という感情が生じるものだ。
それは上下関係だったり、仕事上の場合だったり、時と場合によってはいちいち生じない場合もあるかもしれない。
私は自分の子供に物事を頼む時、どんな些細なことであっても、「悪いけど」と一言添えて依頼する事にしている。
私の父は私に対して物事を頼む時にはいつも命令口調だったが、私は子供と対等でありたいと思う。
将来…いや、もはや現実にAIが人に取って代わりつつある現代だ。指示したり依頼したりする対象は、これから未来は大半が人以外のものに置き換わって行くのだろう。
「すまないけれど」といった人の感情はAIに対しては不要だし、生まれない。少なくとも今は。
けれども、これがSF映画の様に人型ロボットに頼むようになったら、この感情をAIに対する時と、人間に対する時と、的確に使い分ける事が、混乱せずに出来るのだろうか。特にアンドロイドという人と見かけも変わらないような存在のものだったら…そんな事を考えたら、どう対応するのが良いのか混乱しそうだ。と、そこまで考えて、その時代まで生きているかどうかと、我に返る。
遠い昔、職場で手打ちのアナログな機械から、コンピューターへの移行作業を経験した事があった。
膨大な数の顧客の情報を、PCに1日中向かい、連日の入力作業が続いた。
その時、若い私はキーを叩くことで、私の意図する事を成し遂げるPCに、一時感化された。「感化された」というのも変だが、1日中PCと向き合っていると、言ってみれば「ボタン一つで言う事を聞き、面倒臭いことを言わないPC」に心地よさを感じたのだった。人間より楽な存在だと、そんな思いを一瞬でも抱いてしまった事があった。
人は人と関わらずには生きていけない。そして、人と関わることは、感情があるからこそ、面倒だったりするが、また逆に喜びや感動も生まれる。
人が減り身の回りにAIが置き換わりつつあるこの先、便利な一面、人との関わり方、人の心のありように付いて、少し不安も感じたのだった。