勢いよく地面に体を打ちつけ、痛みを抱えながら立ち上がり、直ぐに振り返る。
「誰かに見られなかっただろうか」
傷の状態より先に気になるのは、恥ずかしさ。
下校途中なら、私の後ろに続く小学校の生徒たちが見ており、指さして笑われる事もある。恥ずかしい。
いつも転んだら、必ず振り返っていた。
ある時、私の前を歩いている人が転ぶところを見た。その人は、やはり私と同じ様に、直ぐ振り向いて、私と目があった。
その時感じたのは、「転んだ時に振り向く」という行為の方の恥ずかしさ。逆の立場になって感じた。
それ以来、ころんだ時振り返らない事に決めた。
誰が見てたってそんな事は重要じゃない。むしろ知らないほうが幸せかも知れないと思った。
冬の札幌は滑る。昨日は、買い物帰りに夫が転んだ。
卵の入ったエコ袋を体の上になるようにして、滑り込みをする野球選手の様にダメージの少ない転び方。さすが道産子、お見事!卵も無事だった。
彼は転んでも振り返らなかった。子供の頃から振り返ったことが無いそうだ。そんな人もいる。
恥ずかしさは思いがけないアクシデントに伴うことが多い。
学生の頃、女子が集まって、よその組の誰かの話をしていた。
デート中にスカートが、何故かストンと落ちて脱げてしまったという女の子の話だ。話の結末がおぼろげだ。
一緒にいた彼はどうしたんだっけ?恥ずかしさに逃げ出したんだったろうか?確か、そうだったはずだ。
彼女にとっては最悪だ。恥ずかしい上に、彼に見捨てられるなんて…。
でも、それだけの男だった、ということが分かって、その後は付き合う男性を選ぶのに、慎重になったのじゃないだろうか。
彼女にとって最悪な出来事ではあったけれど、その先の人生を考える上では、プラスになったかも知れない。
アクシデントはいつどこでだって起きる。
一昨年の夏、ハローワークに行っていた頃の事。
パイプ椅子に座って順番を待っていると、足元にいつしか水たまりができていることに気がついた。
この水は一体どこから?と思って自分のリュックを持ち上げると、リュックの底が濡れている。それはステンボトルに入れて持参した麦茶だった。待ち時間の間に一度飲んだのだ
が、閉めたはずの蓋がゆるみ、倒れてリュックの中でこぼれていたのだった。
しっかり閉めたはずだったのに。
パイプ椅子の床に麦茶が広がる。
最初に思ったのは、周囲から”お漏らし“したのではないかと、誤解されることだ。
色といい、量といい、場所といい、三拍子揃っている。
一瞬焦ったが、私は待合室の後方に座っていた。それで、その事実に気付く人は誰もいなかった。それが、何よりの救いだった。
持っているティッシュペーパーで座席やリュックの水分を拭いて、ティッシュペーパーが尽きた。
床は受付窓口の方に事情を説明した。
自分の衣類が濡れなかったのは不幸中の幸いだった。
それから3ヶ月ほど後の事。
娘が帰省した昨年11月に、街へ行こうと娘と一緒に地下鉄に乗ったときのことだった。
二人でおしゃべりしながら、ふと床に目をやると一筋の水がどこからか流れて来た。
「誰かお漏らしでもしたのかな?」と思っていると、向かいに座っていた若い女性が、リュックサックからステンボトルを出してティッシュで拭き始めた。私と同じ事態だ。
私は気の毒に思い、持っているティッシュを差し出そうかと思った。
見ていると、彼女は幸いハンカチを持っていて、何とか事態を一人静かに対処していた。両脇の人は、スマホに夢中で気づいていない。周囲は誰も彼女の事に気づいてはいないようだった。
私とほぼ同時に事態に気付いた娘は、「ティッシュあげたほうが良くない?」と言って直ぐに行動しそうだった。
私も同じ様に考えたのだが、私や娘が立ち上がってティッシュを向かいの女性に差し出せば、周囲の人達が何事かと私達に注目するだろう。それは、せっかく静かに事態を収めつつあった彼女に、恥ずかしい思いをさせてしまうことになりはしないかと懸念した。
自分が同じ事態になったとき、誰にも気づかれ無かった事でホッとした私だった。
善意が逆に悪い結果を招いてしまうこともあるのでは無いか。
この場は、彼女にティッシュを渡すよりも、静観していたほうが彼女のためなのじゃないかと判断して、そのままにした。
それが正しかったかどうか、今もわからないけれど。
アクシデントはいつ何時起こるか知れない。そそっかしさからくるアクシデントは数限りなくやらかしてきた。そして、その都度色んな事を学んだ。その数は、私の場合、人よりずっと多いと思う。ポジティブに考えれば、学ぶ機会が人一倍多かったとも言える。