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ポジティブな私 ポジ人

しつけと暴力

私の両親は、子供を叱る時、手をあげることが多かった。昭和40年代、私の周囲では、ほぼ当たり前のことだった。

言葉で言って聞かせるよりは、手っ取り早く、いけない事を悟らせるためだったのだろうが、私にはあまり効果的ではなかった。

叩かれる前の恐怖心、叩かれた時に感じる痛み、痛さにこみ上げる涙。
結局大泣きして、治まった後は何が原因で叱られたのかも、綺麗サッパリ忘れてしまう子供だった。

そんな訳で、何度も同じ様な事で繰り返し叱られ、ぶたれることになり、いつしか私は「子供を持ったら、絶対叩いてやろう」などと、とんでもない事を考えるようになった。

大昔、三田誠広さんの本(著書名は思い出せないが)を読んだ時のこと。
トラブルがあった時、直ぐに暴力に訴える子供は、言葉で表現する事が出来ないからだと言うようなことが書いてあった。
私がその良い例だった。
コミュニケーション能力が無いため、幼い頃は、カッとなってお友達に手を上げてしまうことが多かったのだ。

親から叩かれて育った子は人を叩く。
親と対話して育った子は人と対話する。

私は親と会話は交わしたが、対話は一切なかった。
あの頃は、親も子供も社会も未熟だった。

高度経済成長期、日本社会がまだ発展途上にあった時代。大人達は精神的にも金銭的にも余裕が無かったから、やむを得なかったかも知れない。

父はよく酒を飲むと「俺は田舎から行李(こうり)ひとつで北海道に出てきたんだ。」と言っていた。

行李とは、竹や柳で編んだ箱型の入れ物で、今で言う衣装ケースの様な物だ。
父の言いたかったこと、それは、
“行李ひとつ”が父の財産の全てであった当時。そこからスタートして、家庭を持ち、ここまで築き上げた事。自身の満足感と幸福感。シャイな父なりの喜びの表現であったと思う。

私は空気を読めない子供だった。
多くの子供が親の顔色をうかがい、欲しい玩具をねだる時は、機嫌の良い時を選ぶ。私はと言うと、そういう事を考慮する事が出来なかったので、最悪の状況下でねだっては叱られた。

大抵の人が自然と察する事が出来る事を、私は説明されないと分からなかった。

最近になって、「もしかすると私は発達障害だったのでは無いか」と思い始めている。
発達障害は様々な障害が重なり合っている事もあるため、判断するのは難しいようだが、例えば

「注意欠陥・多動性障害」について

症状は
・不注意(集中力がない)
・多動性(じっとしていられない)
・衝動性(考えずに行動してしまう)

子供の頃の私は、以上の何れにも当てはまる。

集中力がなく、何でも直ぐに飽きてしまう子供だった。

ピアノを習いたいとねだったら、ピアノは高価だった為だろう、オルガンを買ってもらった。
オルガン教室にも通わせてもらったが、数ヶ月もしない内に、練習が詰まらなくて教室へ行かなくなってしまった。

始めるときは、有名なピアニストの様に弾きたいという意気込みだけはすごいのだが、その熱も直ぐに冷めてしまい、後が続かない。

その後も、絵画教室も数回で辞めた。
3度目の習い事は無かった。「お前は長続きしない」と父に言われ、全て却下となった。

じっとしていることが苦手だった。

小学校の机に座り、授業を受ける事はとても苦痛だった。じっと先生の言う事に耳をかたむける事が出来ない。
知らないうちに自分の空想の世界に行ってしまうのだった。

思い立ったら、あと先考えずに衝動的に行動し、問題を起こす事が多かった。

幼児の頃、私は目に入った物に反応して駆け出すことがあり、良く叱られた。
そこが道路であれ何であれ、興味のある目的物へ一直線に行こうとしてしまう。周囲の状況を判断する前に、行動に移してしまうのだ。

集中力がなく、じっとしていられない、衝動的に行動してしまう、そんな私に親は随分手を焼いた事だろう。

社会人になってからも、仕事上、短絡的に結論を出してしまったり、事務上同じ過ちをするなど、ミスを重ねた。
当時の職場の先輩たちはとても優しく接してくれたが、今思うと私は問題ある社員だったに違いない。

小学校の時から忘れ物の常習犯だった。今も忘れん坊に変わりはないが、年齢的にも忘れる事に、拍車がかかっている。
それ故、人に頼まれた事を忘れてしまわない内に、直ぐに片付けてしまう事にしている。

自分でも「なぜ同じ過ちを繰り返してしまうのか」と情け無くなり、何時しか自らも「ダメな奴」と思い、自信を失いかけたこともある。

でも今、半世紀以上生きてきて感じるのは、これ迄の長い年月をかけて、集中力がつき、状況判断も、人並みに追いついた。

人生の終わりに近づきつつある今も、まだ、発達し続けている感じがする。まだ伸びしろがある。伸びしろしか無いんじゃないかとさえ思う。

沖田×華(おきたばっか)さんと言う漫画家が、自身の発達障害について何冊も本を出している。その内の5冊ほどを読んだ。
努力によって改善出来る事を、彼女も漫画に描いている。
(大人向きの内容もあるので、子供に読ませるには、親御さんが判断した方が良いと思います。)

私が子供の頃は“発達障害”と言う言葉も何もない時代だったから、私は本当に父からダメな奴だと思われていたのだろう。
そんな子供には、やはり行って聞かせてもダメなのだから、叩いて教えるしか無いと父は思っていたのかも知れない。

親による子供への虐待が問題となっている。
昭和時代の人は頻繁に殴る代わり、手加減と言うものを知っていた。陰湿なところも無く、カラリとしていた。
真に、“しつけ”であった。
一発殴って、反省を促すだけだった。

NHKのドキュメンタリーか何かで、中華料理店を営む父親が、調理師になりたいと言う息子に手ほどきをするシーンがあった。息子は小学校の高学年位だ。

中華料理用の包丁は、握り部分は普通だが、包丁の刃にあたる部分が、とてつもなく大きく重たい。

父親は、中華包丁を使用するごとに、目の前にある、まな板の向こう側に置く事を教えた。

調理が始まり、少年はうっかり教えを忘れ、包丁をまな板の向こう側では無く、手前に置いてしまった。その時、間髪をいれず、父親は息子をぶった。

「この包丁が万一落ちたら、お前の足の指は無くなってしまうんだぞ。」と語気を強めて父親は言った。
ぶたれて可愛そうだと一瞬思ったけれど、父親の言う事はもっともだ。
ぶたれた痛みと共に、この教えは深く少年の心に刻まれ、二度と同じ過ちをおかすことは無いだろうと思った。

実際、身に危険を伴う職業、例えば自衛官、消防署員、警察官などの職場における新人教育などで、暴力的なケースが問題となる事があるが、中には中華料理を教える父親の様なケース、危険回避の為に体に覚え込ませるといった例もあるのかも知れない。
それが、不必要に過剰で執拗な場合は大きな問題に違いないが…。

何れにしろ、基本的に暴力は良くないことではある。

“子供を持ったら叩いてやろう”と小学1年生の時に考えていた私だったが、長じるにつれて親からぶたれることがなくなったため、そんな馬鹿げた考えは自然消滅した。

だが、自分の息子が小学2年生のときに一度だけ叩いた事がある。

いつもはおとなしい性格の息子なのだが、何が原因かはもう覚えてもいないけれど、私の中で許せ無いでき事があったのだと思う。

叩き慣れない私が叩いた結果、自分でも驚くほど力が入ってしまった。
叩き終わった瞬間、後悔した。
痛かっただろうなぁ。
当時、空手をやっていた私の一打は、脳の中心に響いたのでは無いかと思うほど強烈だった。
危険な事をしたと反省した。
頭のてっぺんをしきりに息子はさすっていたが、脳は大丈夫だった、と思う。頭はチョット悪くなったかも知れない。
私のせいだったかー。

後にも先にもその一度だけ。
それ以来、息子に限らず、私は手をあげる事を自分に禁じた。


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