八百屋さんが近付いた頃、前方にこちら側へ歩いてくる80代とおぼしき老齢の男性が、足を擦る様に数センチ単位で歩いてくる姿が見えた。そんな状態なのに、手元に杖はない。
内心この道をあの速度で歩くのは大変だなあと思って見ていると、男性はささやかに盛り上がった雪道の前で、前進できずに立ち往生してしまった。
丁度通りすがりであった私と夫は、「どうぞ」と手を差し出して、緩やかな雪の盛り上がりを越えられる様お手伝いをした。
「どうも」と言って老人は、やはり小さな小さな歩幅で私たちとは逆方向へ歩いて行った。
大丈夫かなあと男性を振り返りながら、やがて八百屋さんへ到着し買い物をした。
買い物を終えて、店を出た帰り道。
「さっきのおじいさん、まだいたりして」なんて言いながらだらだら坂を降りて行くと、案の定、今度は水溜りのある緩やかな下り坂の前で立ち往生していた。
追いついた私たちは、再び、「ご一緒しましょう」と声をかけて、夫と両サイドから支えて、しばらくゆっくりと3人で歩いた。
「どちらかへ行かれるのですか」と尋ねると、
「いや、帰るの。すぐ近くだから。ちょっと、腰やっちゃって…」とおっしゃった。どうやら本来は普通に歩ける様なのだが、歩いている途中で腰の調子が悪くなってしまったらしい。
「近いのでしたら、お家までご一緒しましょう」と申し出たが、
「近いと言ってもまだかなりあるし…大丈夫です」とやんわりとお断りされた。
人の好意に甘えるのが苦手な昭和世代の男性なのだなあと思った。私としては、お家まで無事に送り届けたい気持ちが強かったが、本人が望まないのだから仕方がない。
日常で人助けをする機会はそうそうない。
トルコの大地震で被害に遭った方々を助けたくても、遠方だし、せいぜい募金という形になるだろうか。自分がもし募金するなら金額は微々たるものだ。おまけに募金が確実に役に立ったのかどうかさえ、確かめる手立てもない。
だからこそ尚更、今日のように目の前にいる困っている人は助けたいと思う。
「では、どうぞお気をつけて」と声をかけて、男性とそこで別れた。
親切心から何気なく男性と関わっったのだけれど、後から考えてみると、最近のお年寄りを狙った強盗事件やコロナ感染等の社会状況。それらの事を考慮すると、見知らぬ私達から声をかけられ、男性は不安だったかも知れない。自宅を知られるのも不安だったからこそ断ったのかも知れなかった。
私達が両サイドから声をかけたのも、マスクをしているとは言え、コロナ感染の不安感を抱かれたかも知れない。小さな親切、大きなお世話。だったかも知れないと後から気付いた。
男性は無事に家に着かれただろうか。もし、途中で転びでもしたら、あの状況では大変なことになるに違いない。大丈夫だっただろうか。
そんな事が気になりながら、家に帰った。
明日は我が身。北国に住む自分たちも含めた老人たちの生活の大変さを思う。気をつけなければ。
今日は暖かかった。明日から3月。