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ポジティブな私 ポジ人

命の大小

ウォーキングやジョギングで、ほぼ毎日外に出る。
天気の良い日はアリがアスファルトの歩道の上を往来している。
アリに気がつけば、踏むのも嫌なのでよける。でも、周囲を見たり信号を確認したり、路上から目を離すことも多いから、確実に多くのアリを知らないうちに踏み潰しているに違いない。そうだとすると、昆虫だとしても、私は日々多くの命を奪っていることになる。改めて考えると、酷いことをしているのに罪悪感が無い。避けようが無いからなのか、対象が小さくて、繁殖力が強いからか。

「一寸の虫にも五分の魂」ということわざがある。虫を持ち出して、このことわざに意味を込めた人はすごいと思う。
でも、一寸は約3センチほど。昆虫なら、命を奪って罪の意識を感じるのも、このサイズ感からなのだろうか。

地面のアリを気にかけるようになったのは、多分学生の頃に国語の授業で芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を知ってからだと思う。
「地獄に落ちた極悪人のカンダタは、一度だけクモを救ったことがあった。それでお釈迦様が地獄へ蜘蛛の糸を垂らし、カンダタに救いの手を差し伸べるのだが…。」というストーリー。
単細胞の私は、文学を味わうより「自分が罪を犯して地獄行が決定していても、生き物を救えば天国へ行けるチャンスが生まれる」とそこだけ真に受けた。それ以来、出来るだけ足元の昆虫に気を使うようになった。元々は作り話だというのに…。

先日、何かでビーガンの記事を読んだ。ビーガンは簡単に言うと、食物摂取において、菜食主義のベジタリアンよりも更に厳しく「人が動物を搾取せずに生きる」事をしている人々の事を言うらしい。
ビーガンの人の中には、野菜のうち土の中に成るものは、掘り起こすと土の中の虫の命を奪うことになるから食べないという人もいる、というようなことを読んだ。
ビーガンの人も、歩いたり車などで移動したりしているのだから、土中の作物を食べずに救う虫の数より、日常の生活で奪っている虫の数の方が多いような気がしてナンセンスだと思った。

命の喪失で、かわいそうだと思うサイズや種類はどこからなのだろう。
私の場合。

やや大型の昆虫なら、「可愛そうだ」という感情よりも、「あまり気持ちの良いものじゃないな」という感じは生じる。
これがもし、家でペットとして飼っていたカブトムシなら、かわいそうという感情がわくかも知れないけれど。

爬虫類や両生類はどうだろう。
ヘビやトカゲはわからないけど、カエルなら子供の時田んぼで親しんだ生き物だ。アマガエルはかわいいなと思えるから、かわいそうだと思えるのかも知れない。

昔、子供が取っていた学研の教材の付録にカブトエビの飼育キットがあった。
乾燥した卵を水に入れると孵化するという不思議なものだ。
4匹か3匹孵化して、子供と一緒に、小松菜だったかほうれん草の乾燥した餌をやりながら育てたことがある。最終的に一匹になり、かなり長生きして、2センチくらいにまで成長した。デカッピという名前もつけてかわいがっていたが、とうとう命が尽きてしまった。その時は本当に悲しかった。

乾燥してすっかり頭部が崩れてしまったけど、これがデカッピの亡き骸。
不快に感じる人がいたならごめんなさい。

哺乳類だと、どんなに小さくても命がなくなったら、先ず「かわいそうに」という感情がわく。自分と同じ哺乳類だからだろうか。

哺乳類の中でも、食肉に関しては命を頂戴しているのに罪の意識が無い。子供の頃から、日常の当たり前のこととしてとらえていた。

社会人になって、ある小学校の教諭が生徒と共に豚を育て、最終的に育てた豚をみんなで食べることを授業の一環としている事実があったことを知った。
「ブタがいた教室」という妻夫木聡さん主演の映画にもなっている。
ショッキングすぎる。私には無理だ。

そんなことを感じながら、豚肉を食べ、澄ました顔をしている自分がいる。
トサツして、さばいて一切れの肉にしてくれている人がいるのに、そこは想像しない自分。

食事のときの挨拶「いただきます」は「命をいただきます」なのだと何かで読んでからは、魚でも肉でもきちんと食べ尽くすことが、義務だと思うし供養だとも思う。

最近大豆から作った肉や、動物の細胞を培養して作る培養肉などが出てきた。

大豆肉は私が小学生の時にはすでにあった。珍し物好きの父が、どこからか一袋持ってきたのだ。
乾燥したそれを水で戻して使ったと思うが、その頃の物はあまり美味しいと思わなかった。それは調理法も関係したかも知れないけど、なにせ60年近く前の話だ。
現在の大豆肉はかなり美味しいらしい。

培養肉はテレビで見る限り、抵抗がある。でも、将来的には量産されてそれが店頭に並ぶ未来が来そうだ。

命を奪わずに肉を食べられる方がいいのか、どうなのか。
牛豚鶏などの家畜が「食べられる事が宿命」と考えちゃだめなのか。
私の頭ではこの辺りで思考停止。

アリから始まった命の話も、やはり対象のサイズが大きくなるたび、重い話になる。

先日息子と海沿いの田舎の道路を走っていた時、突然息子がハンドルをきって元に戻した。目の前に何かあったようには見えなかった。
「どうしたの」と聞くと「毛虫がいた」という。毛虫を車で引かないように、よけたようだ。
「優しいね」というと「ひいたらタイヤに付くのが嫌だからさ」と息子。
そっちかーい。




コメント一覧

ポジ人
@donmac-life こんばんは。
ヘビ、お亡くなりに…。かわいそうですね。
文章を拝見して、雨に打たれて亡くなったヘビの無念さを感じられました。
あちこちで、小さいけれどドラマチックな出来事が起きているのですね。
donmac-life
こんばんは。夕方に長文コメント書いて最後にボタン押し間違って一瞬で消えた悲しいオジサンです。
気を取り直して…
生き物の命についてニンゲンって勝手ですよね。実は今日、トウモロコシの柵に絡まるように大きなヘビが死んでました。中にはポジ人さんの好きなアマガエルさんが居たのでそれを狙っていたのかも知れません。網目に頭が絡まって動けないまま大雨の夜に亡くなられたようです。ヘビって何故か勝手に悪役にされがちですがポジ人さんの話を読んでたらカエルもヘビも同じように一生懸命に生きている同じ命なんだよなあ…と考えるところでした。ブログ用にちょいグロ画像も撮りましたが反省して掲載中止といたします😱。
あ、書き直してもやっぱり長文でした…失礼。
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