徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

裏切りの社会性

2020-03-05 17:06:03 | 随想

仰る様にに人を見る目を養うという言葉はよく聞きますが、人間の内心ほど解りにくいものは有りません。

それ故に、裏切られた時の衝撃は、与えた信頼の大きさ、見間違えた己に対する苛立ち、によって変わってくるのでしょう。

それ故にそれを利用した策と言うものも、現れてくる。

人間の内心ほど不可解なものはないでしょう。

聖書などでいう神が、人間に疑惑の目を向け、裏切りに対して残酷な態度を見せるのも、その所為かもしれません。

裏切りに対して受けるダメージの大きさは、信頼の度合いによって大いに変わってくる。

信頼の度合いが強ければ強いだけ、裏切られた時のダメージは大きい。

他人を信用すことのない、懐疑的な人間にしてもある程度の失望は感じるだろう。

昔の様に駆け引きが、大きく戦況に影響するような状況では、様々な懐柔の手を伸ばすことは多いだろうが、

その裏切ったものは決して信用されることはないということに気付かなければならない。

裏切り以降、裏切り者の烙印は、そのものの人間性を損なうということを、自覚する必要がある。

昔の武将の藤堂高虎の様に、裏切りを己の信条とした者もいるが、この者の様に成功した例は珍しいのではないっだろうか。

何も、昔の話ではなく現代でも、甘い言葉で、裏切りを誘う戦略を用いることは多く存在するでしょう。

だが一度裏切ったものは決して人の信用を得ることはないということを、十分に認識して裏切る必要がある。

ですから、己を犠牲にして裏切りを演ずると言うことは、社会的に己を抹殺するという覚悟が必要でしょう。

即ち、死を意味するのかも知れません。

現代の様な打算の勝る世ではほとんどありえない、と言ってもいいのかも知れません。

とは言っても、政治絡みで、あるいは会社がらみで、、自殺などと言う記事が世間を賑わしたこともあったような気がします。

小さな裏切りともいえない様な裏切りは、誰もが経験することで、そんな約束違いの様なものまで裏切るの部類に入れては、人間の付き合いはとても叶わない。

裏切りを装って相手の懐に入り、相手の死命を制する様な戦略は人の一生を奪ってしまう重大さがある。

それ程の事態は現代では想像もつかないであろうが・・・・・

古い時代では、主従の関係が強かった時代では、重要な計りごとの一つであったのでしょう。

人を見る目とは言っても、人間の内心は計り知ることが出来ない。

それ故に、表面に現れた態度からしかその人間を評価するしかないが、その判断に自分の評価をどの様に載せるかなかなかむずかしい。

だから人と人との付き合いは面白いのかも知れません。