救いのない人間という生き物
時によって大規模に発生する様々なものの買い占めは他人がどうなろうと己さえよければという、薄汚い人間という生き物の心の反映である。
人間という生き物の心の中にはほとんど間違いなく存在していく情念であるが、多くの人は知性と教養、それと教育によって、
その発現を抑えていることが多いが、それとてもいつそのタガが外れるかわからない。
トイレットペーパーの買い占め騒動はどうやら中国からの輸入が止まると聞きかじったことが原因らしい。
それはどうでもいいのだが、人間という生き物の浅ましさを見せられて、気持ちのいいものではない。
己さえよければ他人はどうでもいいという考えが、ちょっとしたことで日本人という生き物の心の中に住み着いているという事を見せられれば、
道行く人間という生き物の姿がどれもこれも浅ましさの塊のように見えてしまう。
こんな己さえよければ他人はどうなってもいいというのが人間という生き物の本性だとすれば、
人間という生き物が生まれながらに善を行うと考えた孟子さんも己の考えを改める必要に迫られているだろう。
まさに、荀子のいうように人間という生き物は生まれながらの悪が心に住み着いていると考えていい。
トイレットペーパー騒動がデマだという事がわかって、買いだめした輩が憤慨しているという。
だが、このような己さえよければという輩は、デマだという事さえ信じないで、買い占めを続けるか・・・
馬鹿も休み休みにしてほしいものだが、己さえ不自由なく糞ができれば、他人の糞など構うものかという手前勝手な輩が起こした買いだめだろう。
己が一生かかっても使いきれないくらい買いだめしたか、なれば糞拭き紙にくるまって冥土へ旅立つがいい。
因みに言っておくが、日本のトイレットペーパーの生産県は静岡県が圧倒的に多いという。
他人はどうなろうとかまわないという買い占めた輩のやることは、東海大地震が発生してペーパーが不足することを祈ることしかなかろう。
買いだめした輩のやることはそれぐらいしか思いつくまい、それまで大事に大事に使っているがいい。
薄汚い性根の持ち主はそれくらいのことはやりかねなかろう。
他人の迷惑を何とも思わない輩のやることはその程度の事しかできまい。
浅ましい輩たちよ、もっともっと己の浅ましさを磨くといい。
人間、窮すれば通ず、昔は糞掻きベラというものがあった、という事を覚えておくがいい。
戦争中は新聞紙を揉んで使っていたものだが、現代のトイレでそれをやったどうなる。
折角買いだめたペーパも使えなくなるという事が起きるという事である、為念。