徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

~民は由らしむべし、知らしむべからず~

2020-03-19 14:52:09 | 随想

 

論語泰伯篇に

子曰く、民は由らしむべし、知らしむべからず。

こんな言葉がある。

この解釈は大変難しい。

人民を従わせることはできるが、なぜ従うのか、その理由をわからせることは難しい。

孔子がなぜこんなことをわざわざ言い出したのか・・・・

人民は政府の出した法律で思いのまま動かせるが、法律の読めない一般市民に十分な法律の意味を理解させ納得させることは難しい、

と言っただけの意味だという人もいる。

ところが、明治のころ、不ㇾ可ㇾ使の字義を誤りて絶対に民をして知らしめてはならずと解し、

ついに儒教主義の政策は、民を愚かにするなりとの暴論を履く者往々にありその無学を憐れむべきなりと、簡野道明が論語義解の中で批判したという。

何とも傲慢な奴ではあるが、論語にはもともと色んな解釈があり、これを知らしめてはならないとの意味に取るものも有るのであって、

先の簡野道明の様な傲慢な輩は学究の徒のなかでは珍しいというよりは傲岸不遜な態度といっていい。

政治屋や官僚という輩は、すべてを国民に開示することはほとんどなく、多くのものは秘匿されてしまう。

開示請求権を行使しても開示されるものがすべてであることはほとんどありえない。

殆どのものは知らしむべからずと、隠し秘匿してしまう根拠となりかねない論語の一項ではある。

現に、今渦中のコロナについてさえ、多くのものが秘匿され、表面に発表されたのもは氷山の一角ではなかろうか。

 


己の能なきをを患えよ。

2020-03-14 13:36:59 | 随想

人の己を知らざるを患えず、己の能なきを患えよ。

孔子が言った言葉として論語に収載されている。

他人が己を認めてくれないことを気にかけるな。

自分に能のないことを気にかけよ、という意味なのだろう。

他人に認められることを求めることなく、己の実力をつけ、亦他人を認めることに努力せよと言いたいのであろう。

孔子は論語のなかでも、この教訓を方々で言っている。

孔子は弟子たちが出世を焦るのを、口癖のようにこの言葉をもって諭していたように見受けられる。

この様に思うものは己では仕事がよくできる方だと思っているのに、認めてもらえない、

理解してもらえないと思っているものに、多い様な気がする。

というのはこの言葉の少し後に、孔子自身の嘆きが収載されている。

孔子自身、己では多数の弟子を教え、何事にも対応できるという自負があったろう。

だが、この時代環境では孔子が政治の世界へ割り込んでいくには容易なことではなかったろう。

弟子には己の無能を患えよとはいっても、おそらく孔子も腹の中では誰も私を認めてはくれないのかと、思っていたのではなかろうか。

だが、如何に仕事ができると思ってはいても、愚痴や不満ばかりこぼしていては何の展望も開けなかろう。

孔子も、己を振り返って、

我を知る莫きかな。

天をも怨みず、人をも尤めず、下学して上達す。

我を知るものはそれ天か。

考え方によっては、孔子の傲岸不遜な気持ちが吐かせた言葉と受け止められよう。

まさに孔子という男の本性は傲慢そのものなのだろう。

自分の学は下は人間社会から勉強を始め上は天命にまで理解が及んでいる。

この様な自分を理解してくれるものは、やはり天しかないとは~

晩年の孔子は自分を理解するものはこの人間界ではもう存在しないという絶望感を抱いていた節がある。

孔子は、弟子たちとの、その場その場の問答ではそれなりの学識を披歴していたが、

己の哲学として集大成するほどの能力はなかったような気がする。

孔子と弟子たちとの関係は、ギリシャにおけるソクラテスとプラトンなどとの関係を彷彿させるのである。

ソクラテスなども偉大な哲学者とは言われてはいるが己の思想を集大成するほどの能力はなかったような気がする。

ソクラテスの思想はプラトンの著書からうかがい知るくらいのものである。

誰彼構わず議論を吹っかけて、やり込めて得意がっていただけの老いぼれであったのだろう。

自分は知らないことは知らないと思っているだけ、彼らよりは知がある、と思っている。

何ともくだらない輩の様ではあったのだろう。

それをまた後世の生き物どもは、無知の知だなどと言って大騒ぎする、人間という生き物の面白いところかもしれない。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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裏切りの社会性

2020-03-05 17:06:03 | 随想

仰る様にに人を見る目を養うという言葉はよく聞きますが、人間の内心ほど解りにくいものは有りません。

それ故に、裏切られた時の衝撃は、与えた信頼の大きさ、見間違えた己に対する苛立ち、によって変わってくるのでしょう。

それ故にそれを利用した策と言うものも、現れてくる。

人間の内心ほど不可解なものはないでしょう。

聖書などでいう神が、人間に疑惑の目を向け、裏切りに対して残酷な態度を見せるのも、その所為かもしれません。

裏切りに対して受けるダメージの大きさは、信頼の度合いによって大いに変わってくる。

信頼の度合いが強ければ強いだけ、裏切られた時のダメージは大きい。

他人を信用すことのない、懐疑的な人間にしてもある程度の失望は感じるだろう。

昔の様に駆け引きが、大きく戦況に影響するような状況では、様々な懐柔の手を伸ばすことは多いだろうが、

その裏切ったものは決して信用されることはないということに気付かなければならない。

裏切り以降、裏切り者の烙印は、そのものの人間性を損なうということを、自覚する必要がある。

昔の武将の藤堂高虎の様に、裏切りを己の信条とした者もいるが、この者の様に成功した例は珍しいのではないっだろうか。

何も、昔の話ではなく現代でも、甘い言葉で、裏切りを誘う戦略を用いることは多く存在するでしょう。

だが一度裏切ったものは決して人の信用を得ることはないということを、十分に認識して裏切る必要がある。

ですから、己を犠牲にして裏切りを演ずると言うことは、社会的に己を抹殺するという覚悟が必要でしょう。

即ち、死を意味するのかも知れません。

現代の様な打算の勝る世ではほとんどありえない、と言ってもいいのかも知れません。

とは言っても、政治絡みで、あるいは会社がらみで、、自殺などと言う記事が世間を賑わしたこともあったような気がします。

小さな裏切りともいえない様な裏切りは、誰もが経験することで、そんな約束違いの様なものまで裏切るの部類に入れては、人間の付き合いはとても叶わない。

裏切りを装って相手の懐に入り、相手の死命を制する様な戦略は人の一生を奪ってしまう重大さがある。

それ程の事態は現代では想像もつかないであろうが・・・・・

古い時代では、主従の関係が強かった時代では、重要な計りごとの一つであったのでしょう。

人を見る目とは言っても、人間の内心は計り知ることが出来ない。

それ故に、表面に現れた態度からしかその人間を評価するしかないが、その判断に自分の評価をどの様に載せるかなかなかむずかしい。

だから人と人との付き合いは面白いのかも知れません。


裏切り者の悲哀

2020-03-04 15:28:36 | 随想

裏切り者の悲哀

裏切り、とか裏切り者とかいう語感は何とも後味の悪い様な感じを受ける。

この裏切りも様々であり、ほんのお愛想みたいなものから、時代を左右する程重大な意味をもを持つ裏切りまで、

その形態や様相は様々である。

この裏切りとは人の信頼、真心を破壊し、信義に反することである。

信義を重んじた我が国の武将あたりでも、平然と裏切りを行ったものは多い。

今の我が国あたりでも、即座に数百人ぐらいの裏切り者を見つけるに苦労はしなかろう。

 

世界で誰もが知っている裏切り者、ユダ・・・・

彼は本当に裏切ったのっだろうか・・・・

今キリスト教があるのは、イエスが十字架に掛かったから・・・・

もしユダが裏切らず、イエスが十字架に掛からなかったら、果たして今キリスト教って存在しただろうか・・・・・

イエスの計画では、どうしても十字架に掛かって死ななければならない、と思っていた。

イエスの一番の存在理由は、人間のあらゆる罪を背負って、十字架に掛かって死ぬと言うこと・・・・・

これが、病気や単なる事故、はては老衰で死んだのではキリスト教の存在自体、意味を為さなくなる。

イエスが十字架に掛かって死に、復活を遂げてこそのキリスト教。

このパターンがなければキリスト教の存在はない。

再三にわたって言っていた、三日後に復活すると言う言葉が嘘になってしまう。

そこで一番信頼していたユダに役目を仰せ付けたのが裏切りを装うこと・・・・

後にも述べるが、ユダ以外の弟子は信頼するに堪えない者ばかりであったらしい。

ユダが裏切った理由もいろいろ言われている様だが、多寡だか銀貨三十枚ぐらいで、

裏切るものだろうか・・・・当時の職人の日銭は銀貨一枚程度だと言う。

理由などどうでもいいのだが、世間一般信用してくれないと困る。

 

そのあとイエスは計画を遂行するための既定方針に従って、色々と世間に己をアピールする行動に出ている。

当時のユダヤ人社会では旧約の教えを忠実に守っていれば良しとする風潮があったらしい。

彼らに言わせると、イエスと言う訳のわからぬ若者が現れて、旧約の教えは教えとして、

その背後にある神の真意を読み取らなければならないと言う。

などと言っても、契約と言うのは双方の合意で成り立つもの、一方がその真意を汲んで、

勝手な解釈をすると、どこかの国の世情を知らない裁判官の様に杓子定規な判決で契約違反だなどと言われかねない。

この旧約聖書に現れる神々は実に陰険で、残忍な神々で、人間を殺すことなど何とも思わない神であってみれば、

勝手に契約を読み替えて殺されては堪ったものではない。

イエスなどの言うのは、後から述べた屁理屈と言うもの。

尤も、新約聖書になる頃の神は心を入れ替えたのか、

慈悲深い神だと言うのだから、どんな心境の変化があったのか・・・・・

いつまた元の残忍な神に戻らないと言う保証はない。

イエスと言う男、たとえ話をよくするらしい。

たとえ話は聞く方でどうにでも解釈できるもの・・・・

その解釈に難癖をつけるのも数限りなくある。

言われた者はそれぞれ、そうかなって思うが、イエスの利口なのはその本意を決して明かさないところにある。

だから聞く者には、本当は何が言いたいんだろうと思わざるを得ない。

すべてが万事、新旧合わせて聖書を読んでも、イエスと言う人間、教えと言うものが何なのかさっぱりわからない。

マタイ伝に書かれた・・・

22:37イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。

22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。

これだけなら、何も宗教とするほどの事もない。

膨大な聖書などと言うものも必要ない。

比喩を含めても百ページもあれば済むだろう。

ちょっと横道に逸れ様・・・・・

ルカによる福音書に次のようなのがある。

18:27イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。 18:28ペテロが言った、

「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。 18:29イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。

だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、 18:30必ずこの時代ではその幾倍も報いを受け、

また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

人間の社会で、親兄弟、妻子を捨てて、報われるのは悲惨な運命ばかり・・・

人間社会ではこの様な行為をするものは人と呼ばれ、社会的に葬られる。

短い命とは言え、己の生きている世界からはじき出されることは耐えられない。

来るべき世界で、永遠の命を授けられようとも・・・・・

見たことも行ったこともない世界で永遠の命など与えられたと、喜ぶ人間は恐らくいないだろう。

彼の世での永遠の命とは何・・・・・

すべてのものを捨ててイエスに従ったペテロは、彼の世で何を得た・・・・・知る者はいない。

様々な戦場に於いて、ニューヨークのスラム街に於いて必死になって祈る人々に、神は何ををしてくれた。

精神を病み、肉体を病んだ帰還兵に神はなにをしてくれた。

現実世界の苦しみのみを与えてくれたのでは・・・・・・

信じたがゆえに、一層の絶望を感じたのではないだろうか。

宗教者は人間を見間違っている。

 

閑話休題イエスの変容と呼ばれる場面である

17:1六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

17:2ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。

17:3すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。  マタイ福音

 

22:45祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 22:46言われた、

「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。     ルカ福音

話は前後するが、イエスが捕えられたとき・・・・・

「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 26:72そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。

26:75ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。  マタイ福音

ここで弟子たちはイエスと一緒に刑に服することを拒んだのである。

イエスを捨てたのである。

尤もイエスには見抜かれていたのではあるが・・・・・

イエスの弟子たちはこの様に頼りないものばかりの様である。

湖の漁師など、素性の定かでないものが多いらしく、長い間、共に暮らしたとは言っても、

彼らにはイエスの言う言葉の形而上学的意味を理解することは難しかったのかも知れない。

信頼できるのは、ユダしかいないと思っていたのではなかろうか。

このあとイエスは二度、三度と復活を予告してエルサレムへ行く。

高い山に登って変容した時に既に復活を予告していると言うことは、裏切られて、己が死ぬことを知っていたことになる。

最後の晩餐場面で、

14:18そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、

わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。        マルコ福音

14:21「・・・しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。     マルコ福音

とまで言っている。

ユダに惨い役目を負わせたユダへの、せめてものイエスの悔悟の念であったかもしれない。

晩さんの席で、あなたのしようとしていることをしなさい、今すぐに・・・・・と言う。

打ち合わせ通り仕事に掛かれと指示したのであろう。

我が国でも、主のために己を犠牲にして裏切りを装う話は随分と在った。

イエスとユダも十分な打ち合わせが出来ていたのだろう。

ここで失敗して、イエスが十字架に掛からなかったら、今のキリスト教は存在しなかったであろう・・・・・

それほど重大な役目をユダは仰せつかったことになる、裏切り者の汚名を着てまで・・・・・・

裏切り者どころか、ユダはイエスの忠実な家来であったと言える。

ユダは神殿の司祭たちに銀貨を返し、イエスが死を遂げる少し前、城壁外の木で首を括って死を遂げた。

使命を成し遂げ、満足ではあったが、多少の悔しさもあっただろう。

ユダがいなければ今のキリスト教も存在しなかったかもしれない。

裏切り者と言う烙印を張られた人間の末路は哀れである。

信長を裏切った明智光秀の末路もあわれ、関ヶ原で豊臣を裏切った小早川秀秋。

裏切りを誘った家康も、秀秋を許してはおかなかった。

所詮裏切り者は世に受け入れられはしない。

真実、イエスが神の子かどうかは知らないが・・・・・・

イエス自身、神の子を確信していたとはいえ、死への恐怖はぬぐえなかったのであろう。

偉そうなことを言い続けてきたイエスであるが・・・・・・

いざ明日死ぬとなると、磔けの前夜、ゲッセマネの祈りとして有名であるが、死への恐怖と苦悩、使命の重さに恐れおののいて祈っていたと言う。

如何に神の子とは言え人間である以上、これは当然のことで、何の恐怖も感じなければ反対に信用することは出来ないであろう。


コロナウィルス拡散中

2020-03-03 15:20:36 | 随想

街に出て色々見て歩くと、様々な催し物が中止になっている。

新型コロナウィルスなどと言っているがこれは立派な伝染病。

本気になって拡散を防止するなら、保菌者は無菌になるまで隔離する必要がある。

保菌したまま観察終了で解放されているものがほとんどのようで、これでは菌をばらまいて歩いているのと何ら変わりはない。

治療法があるならいざ知らず、治療法もない伝染病保菌者を街中に放出するのは、なんとも理解しがたい。

横浜にいるクルーズ船などには先日の数字で7百名以上もいるという。

この様なものは当然下船禁止の措置が取られているのだろうが、そうでなかったら、関係者の怠慢以外の何物でもない。

下船後に発症などというのも見えるようでは、何の措置もとられていないのと同じこと。

こんな連中から感染でもしたら、関係者一同、腹を切って頂こう。

日本の防疫体制が笊と同じとあってはどんな菌が侵入してくるか知れたものではない。

中国で拡大発症しているにも拘らず、中国からの入国者をいとも簡単に入国させている。

あっという間に日本中に拡散して、パニックになっている。

拡散防止に一番大切なことを隠して、どうして拡散を止められる。

陸続きの国ならいざ知らず、こんな時には離島の利を十分に活用する必要があるにもかかわらず。

如何に交通が発達したとはいっても、防疫体制がきっちりできていれば離小島の利は容易に活用できるはず。

出来ないとするれば、それは官僚や政治屋の怠慢以外の何物でもない。

本気になって撲滅をする気があるなら、発症者の居住区域の詳細を都市区部まで発表する必要がある。

接触感染もあるというのを考えると保菌者のいる区部などでスーパーや他の人の参集するところでの注意もおのずから変わってくる。

スーパーなどの人々の動きを見ていると品物をさんざんに触って戻しているのを見ると、これが保菌者によって行われていると、

これでは拡散を防止することは出来まいと思ったりもする。

保菌者が触って戻した食品など購入しようものなら間違いなく罹患するだろう。

図書館などへ行ってみると閲覧室等は閉鎖になっているが、貸し出しは行っている。

保菌者が借りて返却した書物にも当然菌が付着しているだろう。

広い世の中、指先をなめてページをめくる馬鹿もいまだ絶えていないであろう。

そんな本を借りると間違いなく保菌者に成り下がってしまう。

日本人っていうやつ、国民にすべて明らかにする必要があるにもかかわらず、政治屋や官僚という輩は嘘を発表するの古来から得意にしているから、

どの様な情報も本来信用できないのであるが~~

すぐに嘘とばれる昔の大本営発表などなら罪はないが、治療法のない伝染病についての嘘の発表は取り返しのつかない事態になる。