K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

『真夜中のゆりかご』

2015年10月23日 | 映画
こんばんは。昨晩は酔い潰れて更新できませんでした…好きなんですけど一向に酒に強くならないただけーまです。

今日はお世話になってるギンレイホールで今日はスサンネ・ビア監督の『真夜中のゆりかご』を鑑賞してきました。デンマーク映画。『ストックホルムでワルツを』や『おやすみなさいを言いたくて』など、実は面白い作品が多い北欧映画。そして、今回の『真夜中のゆりかご』も「極上の北欧サスペンス」というフレーズ通り、色々なことを考えさせられる深いストーリーでした。ただ、物語の設定上真相は明らか(予告編でもわかるかと思いますが)で事件性は特に感じないので、サスペンスというよりは登場人物の精神性が中心主題のヒューマンドラマでしょう。

<Story>
敏腕刑事のアンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は、美しい妻アナ(マリア・ボネヴィー)と乳児の息子とともに、湖畔の瀟洒な家で幸せに暮らしていた。そんなある日、通報を受けて同僚シモン(ウルリッヒ・トムセン)と駆けつけた一室で、薬物依存の男女と衝撃的な育児放棄の現場に遭遇する。
一方、夫婦交代で真夜中に夜泣きする息子を寝付かせる日々は愛に満ちていた。だが、ある朝、思いもよらぬ悲劇がアンドレアスを襲い、彼の中で善悪の境界線が揺れ動いていく…。(オフィシャルサイトより)


その後、息子(アレクサンダー)を突然失ったアンドレアス夫妻が、地元のゴロツキで育児放棄をしていたトリスタン夫妻の息子ソーフスとアレクサンダーの遺体を取り換え、育てていこうとするプロットです。「6年間育てた息子は、他人の子でした」というキャッチの是枝裕和監督の『そして父になる』に非常に近しいものがあります。裕福な家庭と貧しい家庭が(もちろん貧富だけでなく性格や境遇等も)対比されているわかりやすい構造で、愛情とは何なのかということを問うた作品。しかし、『そして父になる』と最も大きく違うのは、片方の夫婦には育児放棄をする家庭環境の悪さ(夫のトリスタンが前科持ちの薬物依存で育児放棄の主要因)があるという点でしょう。『そして父になる』に絶対悪が無い(それ故に難しい)のに対し、『真夜中のゆりかご』にはトリスタンと言う絶対的(ってあんまり使いたくないけど)悪がいます。



息子への愛情が深いアンドレアス・アナ夫妻


家庭内暴力が常態化したトリスタン・サネ夫妻


『そして父になる』野々宮夫妻(左:福山雅治・尾野真千子)と斎木夫妻(右:リリーフランキー・真木よう子)

しかし、恐ろしいのは愛情故なのか、意地になっているのか、ソーフスを誘拐して自身の息子の遺体をトリスタン夫妻に押し付けたアンドレアスが、その後刑事としてトリスタン夫妻に息子殺しの罪をもかぶせようとした点でしょう。誘拐という法治上の罪もさることながら、自身の息子の遺体を押し付ける(これは捨てると言った方が近いかもしれない)道徳的罪、それらを絶対的悪のトリスタンに押し付けて社会的に末梢しようとする行為…正義感の強い人間が悪行に手を染めるその様は善悪と愛情が別軸であることを如実に伝えるとともに、人の精神の脆さのようなものも感じさせます。(クリストファー・ノーランの『ダーク・ナイト』に出てくるハーヴィー・デントの在り方(警察の判断で恋人を失い悪に堕ちる)はまさにそれ)
しかし、アンドレアスは次第に「ソーフスは生きている、あれはソーフスじゃない、母親だからわかる」と訴えるサネに真の愛情を感じ始め、自身の罪の意識を解放することになるのですが、そこからも愛情の特殊性と言いますが、環境によらない普遍性のようなメッセージが感じられます。

「でも同時に彼(アンドレアス)がしたことは、実際的な見地からすれば正しい行為とも言える。そこが気に入りました。だって、ある意味で人生とはそういうものでしょう。私たちが思う以上にずっと複雑なものです。物事は道徳的に見て正しいか間違っているかに大別されることに変わりはないけれど、人間はなぜ完璧には理解しがたい行動に出ることがあるのか、という問いに対しての考察を深めてくれることでしょう」

監督はそう語りますが、確かに善悪・加害者・被害者の概念が錯綜するような映画です。育児放棄されている子供を助けるのは確かに「善」なのでしょうが、(環境上育児放棄を強いられていたものの)愛情ある母親から息子を奪う行為は「悪」とも言えるでしょう。人の行動理念は善悪には依らないというのが結論のようにも考えられます。トリスタンは愛情が無いからこそ子供の遺体を隠蔽しようと嘘をついたのだし、サネは愛情があるからこそ悪い家庭環境でも息子を手放そうとしなかったわけだし、アンドレアスは妻への愛情を埋めようと誘拐したのだし、アナは愛情を失ってしまったからこそ投身自殺をしてしまった。それらは何が善なのか悪なのかという問いを無価値にするとともに、善悪と言う主観的で曖昧な価値基準に迷走しているようにも見て取れるわけです。

最後、刑期を終えてホームセンターで働くアンドレアスが偶然ソーフスと再会したシーン。ソーフスに「おじさん迷子なの?」と聞かれたシーンは、そうした曖昧な価値基準の中で彷徨っていたアンドレアスを端的に表現しているようです。そして、「ここで働いているんだ(=迷っていない)」と答えるアンドレアスの表情からは、誘拐という悪行ではあれ、天使のような笑顔を見せるソーフスの命を結果的に救えたという正義感が垣間見えます。

それにしても、北欧の景色はすばらしいですね。本作はデンマーク映画ですが、アイスランドでギャオとか見たいなー、なんて。

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