お久しぶりです。前回の更新が年明けだったのに、もう新年度になってしまいましたね。
新年度初日からぶっ倒れて会社を休む始末でした。胃腸風邪で死ぬかと思いました……
2013年パルムドール作品『アデル、ブルーは熱い色』を観てきました。場所は名古屋の伏見ミリオン座。小さな映画館で整理券方式といういかにも「劇場座」という感じの雰囲気溢れる映画館でした。たまにはこういうところで観るのも悪くないですね。
アブデラティフ・ケシシュ監督、及び主演の二人アデル・エグザルコプロスとレア・セドゥの計三名が受賞したというカンヌ史上嘗てない快挙を遂げた本作品。
アブデラティフ・ケシシュ監督と言えば、ぼくが以前訪れた「地中海映画祭」なるものに来訪していたフランス映画監督ではないですか!
意外なところでつながってくるものなんですね。偶然の再開に嬉しくなりました。
《Story》教師を夢見る高校生アデル(アデル・エグザルコプロス)は、運命的に出会った青い髪の画家エマ(レア・セドゥ)の知性や独特の雰囲気に魅了され、二人は情熱的に愛し合うようになる。数年後、念願の教師になったアデルは自らをモデルに絵を描くエマと一緒に住み、幸せに満ちあふれた毎日を過ごしていた。しかしエマの作品披露パーティーをきっかけに、二人の気持ちは徐々に擦れ違っていき……。
性描写による芸術表現
今回の作品で物議を醸しているシーンが7分にも渡るセックスシーン。セックスシーンがある映画は数あれど、女性同士のセックスシーンというものをここまで露骨に映した映画が嘗てあったでしょうか。
レズビアンがどのようにセックスをしているのかなんて、例え知識としてしっていたとしても、そういう動画を探さなければ実際にどうやっているのかなんて決して知ることはありません。
そんな物議を醸してしまう7分間のセックスシーンが、とても美しいわけです。そう、嘗て経験したことのないような美的感覚、視覚的快楽と言いますか……新しい画家の作品を観た瞬間に感覚としては近いかもしれません。
男女間のセックスも、画になるものはそりゃあ画になるのでしょうが、決して新鮮では在り得ません。そんな常識に捕らわれた私にとって、このシーンの持つ衝撃は大きかったですね。生々しいエロティックで濃密な7分間に文字通り目が釘付けになります。まさに、映画史に残る性描写と断言できるでしょう。
「青」を基調とした綿密なプロット
この物語は、タイトルからもわかる通り、「ブルー」つまり「青」という色を中心に物語が進行していきます。(ジャン・ピエール・ジュネ監督の『アメリ』も「緑」を基調として制作されていましたが、本作は「青」がストーリーに大きく関わってきている点で異なります)
主人公アデルが恋に落ちる相手エマは髪が青いボーイッシュな女性でした。そこから、彼女達の「青い恋愛」は始まります。
序盤、美術学生であったエマとのやり取りの中で絵画の嗜好の話になるのですが、そこでアデルが答えた「ピカソ」という答えが何とも象徴的です。というのも、「ピカソ」は自身の象徴とも言うべきキュビズムに至るまで、青を基調とした作品ばかりを描いていた「青の時代(Blue Period)」があったからです。
青い髪のエマとアデルは狂おしい程にお互いを求め合いますが、自身の才能を信じて芸術家という不安定な夢を追いかけるエマと持ち前の文才を活かさず安定した教師という道を歩むアデルは、徐々にすれ違っていく(エマの情熱がアデルよりも仕事・絵画に向けられていく)ことになります。
※友人曰くアデルの得意料理であるボロネーゼの赤も、青いエマとの対比になっています。(ぼくは気づけませんでしたが)
寂しさに負けて男に抱かれるアデルは、結局エマに真実を見破られ破局を告げられ、二人の「青い恋愛」は終焉を迎えます。(この頃には既にエマの髪も青くはなくなっており、視覚的にも「青い恋愛」が終わりゆくことがわかるようになっています)
「循環性」を感じさせるラストシーン
「青の恋愛」が終わった後は髪の青くなくなった(=「青い恋愛」を終わらせた)エマと「青い恋愛」に必死で縋りつこうとするアデルが対比的に描写されます。
アデルは嘗て愛を囁きあったベンチに訪れたり、青い海に身を沈めたり、エマに復縁を求めたりと、嘗ての恋愛を諦めきれません。
青い海に身を沈めるアデル
最期のシーン、エマの美術展に招かれたアデルは化粧に気合を入れ、ネイルも綺麗に塗り、真っ青なドレスを着てエマの許を訪れますが、エマの傍らには既に新しい女性があり、エマの作品に描かれるのはアデルではなく新しい女性の姿でした。それを観たアデルは悲痛の思いでその場を後にし、コツコツと頼りない足取りで歩みを進めるシーンで映画は終了となります。
描かれなかった最終シーンの先に何が待ち構えているのか。
アデルに関して言えば、象徴的なのが教師に対する拘りがあります。映画の冒頭に「ひとめぼれの有無」に関するレクチャーがあり、その直後にアデルはエマに「ひとめぼれ」をしてしまいます。アデルと教師というものを結びつける重要な因果関係のようにも思えますが、アデルの成りたい教師は退屈なレクチャーをする教師ではありませんでした。
しかし、アデルはエマと破局を迎えた後、どんどんつまらない教師に近づいていきます。エマに復縁を求めて拒絶されてからは、完全に嘗て自分が成りたくなかった教師像になりつつありました。ここからも、「青い恋愛」を終え夢を実現に叶えつつあるエマとの対比が強調されている印象を覚えます。
最期のシーンは解釈の分かれるところかとは思いますが、果たしてアデルは「青い恋愛」を終えることが出来たのでしょうか。いずれにせよ、直後に待っているのは嘗て成りたくなかったつまらないレクチャーをする教師としての自分にほかなりません。
物語の先は観客の想像力の自由となるところですが、アデルには新しい幸せを掴んでほしいところです。
ピカソが「青の時代」を終えた後に「薔薇の時代」を迎えたように。
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