最近全く映画の更新が追いついていないただけーまです。今回は今更ですがトッド・ヘインズ監督の『キャロル』です。
<Story>
1952年ニューヨーク、クリスマスを間近に控えて街は活気づき、誰もがクリスマスに心ときめかせている。マンハッタンにある高級百貨店フランケンバーグのおもちゃ売り場でアルバイトとして働く若きテレーズ・ベリベット(ルーニー・マーラ)。フォトグラファーに憧れてカメラを持ち歩き、恋人のリチャード(ジェイク・レイシー)から結婚を迫られてはいるが、それでも充実感を得られず何となく毎日を過ごしていた。(オフィシャルサイトより)
その後、目の前に現れたエレガントな美女キャロル(ケイト・ブランシェット)と恋仲になっていくのです。それは抑圧されていた欲望を開放するような形でジワジワと2人を蝕んでいくわけです。
何かと話題になっていた本作ですが、同性愛という切口で考えると、どうしてもケシシュの『アデル、ブルーは熱い色』が思い出されてしまいます。個人的にはアデルの方が好きですね。
LGBTに対する無理解
この映画の特徴のひとつは、舞台が戦後間もない時期であるということでしょう。ぼく自身もLGBTの友人は何人か居ますが、渋谷区の「同性パートナーシップ条例」に見られるように現在はかなり社会の理解が進んでいます。著名な映画監督やミュージシャンにもそういう方は多いですし、外資系の企業ではLGBTに対する企業説明会なんかも行っているみたいです。実際こういう作品が賞を受賞しているのも理解が進んでいるからでしょう。
なので、この理解が進んでいない時期(確かこの時期はまだ同性愛は罪だった?)の同性愛を描くということは非常に繊細さを問われるのではないかと感じました。周囲の偏見がある中、密かに愛情を育むを描いた作品。それゆえにテレーズはセックスをしたいと思わない彼氏と付き合い、キャロルも愛の無い夫と仮面夫婦として過ごしていたわけです。キャロルの「心に従って生きなければ、人生は無意味よ」という言葉が、当時の同性愛者の生きづらさを端的に語っているでしょう。
視線の交錯と社会的現実からの解放
この作品の最も印象に残っているのは、冒頭とラストでキャロルとテレーズが視線を交錯させるシーンです。デパートで初めて会った瞬間の視線とパーティーで再開した時の視線は全く異なる視座で描写されているからです。
初めてふたりが出会った瞬間は、テレーズもキャロルも社会的現実と自己の現実に折り合いをつけられていない状態でした。テレーズはカメラを使って仕事に就きたいという夢を追いながらも百貨店の店員として働き、セックスもしたくない彼氏と付き合い続け、キャロルはアビーと縁を切りつつも母娘愛を優先する形で同性に対する愛情を抑圧していた。そうした欲求不満が同性愛を切口に、特にふたりの愛の浪漫飛行を機に徐々に絆されていくわけです。
テレーズとキャロルの邂逅
ふたりは逃避行を敢行した後、キャロルは娘の親権ではなく面会権を求めるようになり、テレーズは写真の仕事を評価され始めます。つまり、折り合いをつけざるを得なかった社会からの脱出を成し得たわけです。
ラストシーンでの視線の交錯。蛇に睨まれた蛙、ではないですが、言葉では表現し得ない素晴らしい静寂が訪れます。社会的現実の拘束から逃れたふたりは、同性愛という自身の現実を相手の瞳の中に見出し佇んでしまうわけです。
しかしテレーズという名前が出てくると(しかも夢を追っている!)、バルテュスの≪夢見るテレーズ≫が想起されてしまいますね。
どこかロマンチストなテレーズ
<Story>
1952年ニューヨーク、クリスマスを間近に控えて街は活気づき、誰もがクリスマスに心ときめかせている。マンハッタンにある高級百貨店フランケンバーグのおもちゃ売り場でアルバイトとして働く若きテレーズ・ベリベット(ルーニー・マーラ)。フォトグラファーに憧れてカメラを持ち歩き、恋人のリチャード(ジェイク・レイシー)から結婚を迫られてはいるが、それでも充実感を得られず何となく毎日を過ごしていた。(オフィシャルサイトより)
その後、目の前に現れたエレガントな美女キャロル(ケイト・ブランシェット)と恋仲になっていくのです。それは抑圧されていた欲望を開放するような形でジワジワと2人を蝕んでいくわけです。
何かと話題になっていた本作ですが、同性愛という切口で考えると、どうしてもケシシュの『アデル、ブルーは熱い色』が思い出されてしまいます。個人的にはアデルの方が好きですね。
LGBTに対する無理解
この映画の特徴のひとつは、舞台が戦後間もない時期であるということでしょう。ぼく自身もLGBTの友人は何人か居ますが、渋谷区の「同性パートナーシップ条例」に見られるように現在はかなり社会の理解が進んでいます。著名な映画監督やミュージシャンにもそういう方は多いですし、外資系の企業ではLGBTに対する企業説明会なんかも行っているみたいです。実際こういう作品が賞を受賞しているのも理解が進んでいるからでしょう。
なので、この理解が進んでいない時期(確かこの時期はまだ同性愛は罪だった?)の同性愛を描くということは非常に繊細さを問われるのではないかと感じました。周囲の偏見がある中、密かに愛情を育むを描いた作品。それゆえにテレーズはセックスをしたいと思わない彼氏と付き合い、キャロルも愛の無い夫と仮面夫婦として過ごしていたわけです。キャロルの「心に従って生きなければ、人生は無意味よ」という言葉が、当時の同性愛者の生きづらさを端的に語っているでしょう。
視線の交錯と社会的現実からの解放
この作品の最も印象に残っているのは、冒頭とラストでキャロルとテレーズが視線を交錯させるシーンです。デパートで初めて会った瞬間の視線とパーティーで再開した時の視線は全く異なる視座で描写されているからです。
初めてふたりが出会った瞬間は、テレーズもキャロルも社会的現実と自己の現実に折り合いをつけられていない状態でした。テレーズはカメラを使って仕事に就きたいという夢を追いながらも百貨店の店員として働き、セックスもしたくない彼氏と付き合い続け、キャロルはアビーと縁を切りつつも母娘愛を優先する形で同性に対する愛情を抑圧していた。そうした欲求不満が同性愛を切口に、特にふたりの愛の浪漫飛行を機に徐々に絆されていくわけです。
テレーズとキャロルの邂逅
ふたりは逃避行を敢行した後、キャロルは娘の親権ではなく面会権を求めるようになり、テレーズは写真の仕事を評価され始めます。つまり、折り合いをつけざるを得なかった社会からの脱出を成し得たわけです。
ラストシーンでの視線の交錯。蛇に睨まれた蛙、ではないですが、言葉では表現し得ない素晴らしい静寂が訪れます。社会的現実の拘束から逃れたふたりは、同性愛という自身の現実を相手の瞳の中に見出し佇んでしまうわけです。
しかしテレーズという名前が出てくると(しかも夢を追っている!)、バルテュスの≪夢見るテレーズ≫が想起されてしまいますね。
どこかロマンチストなテレーズ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます