最近ようやく観たい映画が続々と公開されていますが、なかなか観られずヤキモキ。美術館も最近行けてないなー。
今回紹介するのは、2017年にパルムドールを受賞したリューベン・オストルンド監督の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』です。
パルムドールはテレンス・マリック監督の『ツリー・オブ・ライフ』以来毎回劇場で鑑賞していますが、高尚な理性を試すようなシナリオ、面白すぎます……ここ数年のパルムドールで最も好きかもしれません!
《Story》
正義という名の落とし穴
理想どおりに生きることの難しさ
クリスティアンは現代美術館のキュレーター。洗練されたファッションに身を包み、バツイチだが2人の愛すべき娘を持ち、そのキャリアは順風満帆のように見えた。彼は次の展覧会で「ザ・スクエア」という地面に正方形を描いた作品を展示すると発表する。その中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という「思いやりの聖域」をテーマにした参加型アートで、現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じる狙いがあった。(中略)一方、やり手のPR会社は、お披露目間近の「ザ・スクエア」について、画期的なプロモーションを持ちかける。それは、作品のコンセプトと真逆のメッセージを流し、わざと炎上させて、情報を拡散させるという手法だった。その目論見は見事に成功するが、世間の怒りはクリスティアンの予想をはるかに超え、皮肉な事に「ザ・スクエア」は彼の社会的地位を脅かす存在となっていく……。(「映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』公式サイト」より)
舞台は現代美術館。チーフキュレーターを主人公に据え、コンセプチュアルアートの意図と実際の行動が伴わないことを痛烈に風刺した作品です。
「理想どおりに生きることの難しさ」というテーマは、理性は本能を従わせられるのか、ということのように感じます。
その難しさを身をもって体現してくれるのが、チーフキュレーターのクリスティアン。口では高尚なことを述べながら、実際の行動はその高尚さに見合わない。思想と行動にギャップを抱えている人物です。監督自身の姿を投影しているのだとか。
この作品を支えるのは、そうした理性と本能の二律背反です。印象的なシーンや行動がいくつも現れます。
思いやりは是であるという理性と実際に手を差し伸べるのは億劫だという本能。
女性と安易に寝てはならないという理性と性欲という本能。
インモラルな広告は打たないという理性と話題化したいという本能。
人間の理性を試すかのように登場するのが、本物の猿とモンキーマン。人間のように生活する猿と猿に取り憑かれたようなパフォーマンスアートを繰り広げるモンキーマンが、鑑賞者を含めた人々の心の動きを揺さぶります。
さまざまなせめぎ合いがありつつ、そうした理性と本能のギャップにクリスティアンは葛藤し、傷付き、二人の娘と過ごす中で自分の愚かさに気づいていきます。
印象的なのが、自分が犯した過ちに対する謝罪を、相手が子供だからと頑なに避けてきたクリスティアンが、ゴミ捨て場から少年の連絡先を見つけようとするシーン。これも、何もしなければそれでなあなあになってしまう出来事でしたが、探してちゃんと謝るべきという理性が彼を突き動かすシーンです。
そして、「思いやり」を象徴するのが娘のチアリーディングのシーン。競技エリアが正方形(SQUARE)に区切られた、謂わば娘の「ザ・スクエア」です。その正方形の中で競技をする娘。チームメイトに体を任せて演技を披露する。娘は自身の聖的な領域の中で他人を信頼しているという事実が明示されます。その姿に父親の心が揺らぎ始める。
人は信じるべきという理性と信じられない本能のギャップと最終的に折り合いをつけ、クリスティアンは自らの行為を顧みます。利己的な行為を反省し、迷惑をかけた少年の元へ赴き謝罪をしようとするのです。
そこについていこうとする娘たちの姿が何ともいじらしい!父親が本能を理性でねじ伏せる様を見ようというのですから。
最後の意味深な静寂に満ちた車中のシーンも良い。結局少年は引っ越していて謝罪はできなかったものの、娘に響いたのかどうか気になる演出です。
音楽もめちゃめちゃ良かった!バッハの「Ave Maria」をヨー・ヨー・マのチェロとボビー・マクファーリンの声で演奏。楽器と人の声というのはしばしば相対するものの象徴として扱われますが、今回の理性と本能につながっているようです。
そして、旋律を楽器(道具)が、伴奏を人声が担当しているのも理性と本能の転回系のようでテーマに合っていたなと。
パンフレットも充実!今回の作品が伝えている心理学の「傍観者効果」というものも詳しく解説されているので非常に面白い内容でした。(形もちゃんとスクエアだし!笑)
今回紹介するのは、2017年にパルムドールを受賞したリューベン・オストルンド監督の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』です。
パルムドールはテレンス・マリック監督の『ツリー・オブ・ライフ』以来毎回劇場で鑑賞していますが、高尚な理性を試すようなシナリオ、面白すぎます……ここ数年のパルムドールで最も好きかもしれません!
《Story》
正義という名の落とし穴
理想どおりに生きることの難しさ
クリスティアンは現代美術館のキュレーター。洗練されたファッションに身を包み、バツイチだが2人の愛すべき娘を持ち、そのキャリアは順風満帆のように見えた。彼は次の展覧会で「ザ・スクエア」という地面に正方形を描いた作品を展示すると発表する。その中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という「思いやりの聖域」をテーマにした参加型アートで、現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じる狙いがあった。(中略)一方、やり手のPR会社は、お披露目間近の「ザ・スクエア」について、画期的なプロモーションを持ちかける。それは、作品のコンセプトと真逆のメッセージを流し、わざと炎上させて、情報を拡散させるという手法だった。その目論見は見事に成功するが、世間の怒りはクリスティアンの予想をはるかに超え、皮肉な事に「ザ・スクエア」は彼の社会的地位を脅かす存在となっていく……。(「映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』公式サイト」より)
舞台は現代美術館。チーフキュレーターを主人公に据え、コンセプチュアルアートの意図と実際の行動が伴わないことを痛烈に風刺した作品です。
「理想どおりに生きることの難しさ」というテーマは、理性は本能を従わせられるのか、ということのように感じます。
その難しさを身をもって体現してくれるのが、チーフキュレーターのクリスティアン。口では高尚なことを述べながら、実際の行動はその高尚さに見合わない。思想と行動にギャップを抱えている人物です。監督自身の姿を投影しているのだとか。
この作品を支えるのは、そうした理性と本能の二律背反です。印象的なシーンや行動がいくつも現れます。
思いやりは是であるという理性と実際に手を差し伸べるのは億劫だという本能。
女性と安易に寝てはならないという理性と性欲という本能。
インモラルな広告は打たないという理性と話題化したいという本能。
人間の理性を試すかのように登場するのが、本物の猿とモンキーマン。人間のように生活する猿と猿に取り憑かれたようなパフォーマンスアートを繰り広げるモンキーマンが、鑑賞者を含めた人々の心の動きを揺さぶります。
さまざまなせめぎ合いがありつつ、そうした理性と本能のギャップにクリスティアンは葛藤し、傷付き、二人の娘と過ごす中で自分の愚かさに気づいていきます。
印象的なのが、自分が犯した過ちに対する謝罪を、相手が子供だからと頑なに避けてきたクリスティアンが、ゴミ捨て場から少年の連絡先を見つけようとするシーン。これも、何もしなければそれでなあなあになってしまう出来事でしたが、探してちゃんと謝るべきという理性が彼を突き動かすシーンです。
そして、「思いやり」を象徴するのが娘のチアリーディングのシーン。競技エリアが正方形(SQUARE)に区切られた、謂わば娘の「ザ・スクエア」です。その正方形の中で競技をする娘。チームメイトに体を任せて演技を披露する。娘は自身の聖的な領域の中で他人を信頼しているという事実が明示されます。その姿に父親の心が揺らぎ始める。
人は信じるべきという理性と信じられない本能のギャップと最終的に折り合いをつけ、クリスティアンは自らの行為を顧みます。利己的な行為を反省し、迷惑をかけた少年の元へ赴き謝罪をしようとするのです。
そこについていこうとする娘たちの姿が何ともいじらしい!父親が本能を理性でねじ伏せる様を見ようというのですから。
最後の意味深な静寂に満ちた車中のシーンも良い。結局少年は引っ越していて謝罪はできなかったものの、娘に響いたのかどうか気になる演出です。
音楽もめちゃめちゃ良かった!バッハの「Ave Maria」をヨー・ヨー・マのチェロとボビー・マクファーリンの声で演奏。楽器と人の声というのはしばしば相対するものの象徴として扱われますが、今回の理性と本能につながっているようです。
そして、旋律を楽器(道具)が、伴奏を人声が担当しているのも理性と本能の転回系のようでテーマに合っていたなと。
パンフレットも充実!今回の作品が伝えている心理学の「傍観者効果」というものも詳しく解説されているので非常に面白い内容でした。(形もちゃんとスクエアだし!笑)
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