『万引き家族』関連でまた疑似家族ものをひとつ。吉田美和監督の『永い言い訳』です。個人的にはこちらの方が胸にジーンとくるものがありました。
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。その時不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。そんなある日、妻の親友の遺族―トラック運転手の夫・陽一とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い彼らの世話を買って出る。保育園に通う灯(あかり)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平。子どもを持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが・・・(アスミック・エース「作品一覧ページ」より)
自分の家族というものを知らない主人公の幸夫が、似た境遇の家族と過ごすことで自らの過ちと人生の在り方を見つめ直すヒューマンドラマ。
愛することの儚さと家族になることの難しさを伝える素晴らしい物語でした。
自分を愛しすぎる現代人
主人公は、小説家としてデビューし、自己愛に塗れていた幸夫。夫婦関係は冷めきっており、美容師である妻にも横柄な態度をとり、悪びれることなく不倫をする。そして、不倫相手とセックスしている晩に旅行中の妻をバス事故で亡くしてしまいます。
そこからより明るみになる幸夫の妻への関心のなさ。インタビューを受けるときも、墓前に花を備えるときも、涙を流さずまるで他人の死を哀しむ演技をしているように映ります。それは、自分が人生の主役であると強く思い込むが故の独特の困惑でしょう。事実、幸夫は驚くほど妻である夏子に無知でした。友人関係も、仕事場での立ち位置も、最期どんな服を着ていたかも。幸夫は妻を愛さず、子を作らず、刹那的に愛人を抱く、謂わば他人と人生を歩む気のない男として映ります。
そして、見つかる妻の携帯電話から見つかったメッセージ。下書きに残されていたのは「もう愛してない。ひとかけらも。」という文章。
そうした圧倒的自己愛は、ズギャビンツェフの『ラブレス』に通じるものがありますね。肉親ですら、他人はどこまでも関係のない他者である、という現代人特有のテーゼですね。
疑似家族による家族愛の獲得
自己愛の愚かさを気づかせてくれたのが、幸夫と同じようにバスで妻を喪った陽一の家族でした。陽一の妻ゆきと幸夫の妻夏子は友人で、いつまでも妻の死を克服できない陽一に代わり、幸夫が陽一の息子と娘の面倒を見ることになるのです。
他人の子を育てていく中で、幸夫は家族の愛、即ち他者と人生を歩むことの尊さに気づき始めます。そうした学習の中で、妻と共に歩み得た自身の人生を振り返り、初めて感情のこもった一筋の涙を流すのでした。
「人生は、他者だ。」圧倒的な自己愛に溺れた男が、その事実に辿り着くまでの物語。クライマックスに流れる手嶌葵の「オンブラ・マイ・フ」の美しい旋律が幸夫の心情の変化を的確に描写します。
ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」は【かつて木陰がこんなに愛すべきものであったことはない】という、気づかなかった尊さを歌い上げる名曲。まさに、妻を失ってから妻への愛情を顧みた幸夫の心情にほかなりません。
人生とは他者と生きること。そして、幸夫は取り戻せない過去を偲ぶように、嘗て妻が経営していた美容室に顔を出すのでした。
愛の儚さは言うまでもなく、家族になることの難しさは普遍的なものでしょう。『幼な子、我らに生まれ』も然り、本作も然り。
他人でありながら他人ではない「家族」こそ、本当の愛の在り方が問われているのかもしれません。
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。その時不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。そんなある日、妻の親友の遺族―トラック運転手の夫・陽一とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い彼らの世話を買って出る。保育園に通う灯(あかり)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平。子どもを持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが・・・(アスミック・エース「作品一覧ページ」より)
自分の家族というものを知らない主人公の幸夫が、似た境遇の家族と過ごすことで自らの過ちと人生の在り方を見つめ直すヒューマンドラマ。
愛することの儚さと家族になることの難しさを伝える素晴らしい物語でした。
自分を愛しすぎる現代人
主人公は、小説家としてデビューし、自己愛に塗れていた幸夫。夫婦関係は冷めきっており、美容師である妻にも横柄な態度をとり、悪びれることなく不倫をする。そして、不倫相手とセックスしている晩に旅行中の妻をバス事故で亡くしてしまいます。
そこからより明るみになる幸夫の妻への関心のなさ。インタビューを受けるときも、墓前に花を備えるときも、涙を流さずまるで他人の死を哀しむ演技をしているように映ります。それは、自分が人生の主役であると強く思い込むが故の独特の困惑でしょう。事実、幸夫は驚くほど妻である夏子に無知でした。友人関係も、仕事場での立ち位置も、最期どんな服を着ていたかも。幸夫は妻を愛さず、子を作らず、刹那的に愛人を抱く、謂わば他人と人生を歩む気のない男として映ります。
そして、見つかる妻の携帯電話から見つかったメッセージ。下書きに残されていたのは「もう愛してない。ひとかけらも。」という文章。
そうした圧倒的自己愛は、ズギャビンツェフの『ラブレス』に通じるものがありますね。肉親ですら、他人はどこまでも関係のない他者である、という現代人特有のテーゼですね。
疑似家族による家族愛の獲得
自己愛の愚かさを気づかせてくれたのが、幸夫と同じようにバスで妻を喪った陽一の家族でした。陽一の妻ゆきと幸夫の妻夏子は友人で、いつまでも妻の死を克服できない陽一に代わり、幸夫が陽一の息子と娘の面倒を見ることになるのです。
他人の子を育てていく中で、幸夫は家族の愛、即ち他者と人生を歩むことの尊さに気づき始めます。そうした学習の中で、妻と共に歩み得た自身の人生を振り返り、初めて感情のこもった一筋の涙を流すのでした。
「人生は、他者だ。」圧倒的な自己愛に溺れた男が、その事実に辿り着くまでの物語。クライマックスに流れる手嶌葵の「オンブラ・マイ・フ」の美しい旋律が幸夫の心情の変化を的確に描写します。
ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」は【かつて木陰がこんなに愛すべきものであったことはない】という、気づかなかった尊さを歌い上げる名曲。まさに、妻を失ってから妻への愛情を顧みた幸夫の心情にほかなりません。
人生とは他者と生きること。そして、幸夫は取り戻せない過去を偲ぶように、嘗て妻が経営していた美容室に顔を出すのでした。
愛の儚さは言うまでもなく、家族になることの難しさは普遍的なものでしょう。『幼な子、我らに生まれ』も然り、本作も然り。
他人でありながら他人ではない「家族」こそ、本当の愛の在り方が問われているのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます